U マケドニア伝道の開始
1. マケドニア
マケドニアは、エーゲ海の北西の境にある平野と、内陸の荒れた丘の地方とか ら成り立っています。このマケドニアとギリシアとを統一した
のは、フィリップ二世でした。 その息子のアレクサンドロス大王の征服により、ギリシア文明をインドの端々にまでもたらすこ とになりました。そ
の後、ローマがマケドニアを征服して、紀元前一四八年にはマケドニア全 体がローマの属州になり、テサロニケの地方総督により統治された
のです。ローマは西から東 へとマケドニアを横断する軍事上、商業上重要な役割を果たすことになるエグナティア街道を 建設しました。パウロ
は、このエグナティア街道を、ネアポリスからフィリピ、アンフィポリス、 アポロニア、そしてテサロニケへと旅したのに違いありません。
2. 海を渡る−トロアス
わたしたちは、パウロたちのように、旅したのではもちろんありません。トロアスに行くために、イスタンブールから、ボスポラス海峡を船で渡
り、チャムッカレに着きました。写真1、2は、ボスポラス海峡です。写真3は、着いたチャナッカレです。写真4、5、6、7は、トロイアの遺跡で
す。また 写真8 は、トロイアの木馬にあやかってつくられたものです。紀元前一一八四年、あるいは一一九四年のトロイア戦争の場所であった
トロイアから、南 約一六キロのところにもアンティゴノスが一つの街を建設し、さらにリュシマカスがそれを再 建しました。それがトロアスです。
皇帝アウグストゥスは、トロアスをローマの植民地としま した。このトロアスは、小アジアの北西から、西に向けて旅行するための重要な港にな
りまし た。わたしたち、トロイアからトロアスに、車でまいりました。途中、結婚式に出会いました。写真9、10がそれです。さて、写真1
1,12,13は、トロアスの港です。現在は、荒れ果てました遺跡をみるばかりですが、劇場や導水管や街の壁により、繁栄した古代都市の面
影を偲ぶことができます。
パウロは、四六 年の春に、シリアのアンティオキアを出発して、想像を絶する困難と闘いまして、山々を経巡 り、トロアスについたのです。こ
こトロアスにきまして、パウロは幻を見ました。それは、一 人のマケドニア人が、パウロにマケドニアに渡って来て、わたしたちを助けてください
と言っ ているのです。パウロはそれを神さまが招いているものと信じ、マケドニアに向けて船出します。
さて、この一人のマケドニア人とはだれでしょうか。それはルカではないかと思います。 というのは、パウロは目で見て一人の人をマケドニア
人と断定しています。ところが、エーゲ 海の東部と西部とでは、沿岸に住んでいる人たちについて、その区別を衣服でするということ はできな
いはずでした。パウロが衣服でそれと区別ができたということは、その人に前にあったことがあり、その人を知っていたのではないかと考えられ
ます。そして、それはコロサイの信徒への手紙四章十四節に出てきます愛する医者のルカだったのではないでしょうか。ルカは、アンティオキ
アで生まれたとする言い伝えがあります。その後、地中海東部の国のギリ シア語を話すローマ人の家で医学の教育を受けました。ジュリア
ス・シーザーは、ローマのすべての医者にローマの市民権を与えていましたので、ルカも医者としてその特権をもっていた のではないでしょう
か。彼はフィリピで開業しており、トロアスにパウロが着いたことを聞いて 、トロアスにきてパウロに会いました。使徒言行録によると、このマケ
ドニアの人と会ってから後は、ルカを含む「わたしたち」が、マケドニアに着くように懸命に努力するようになるのです。この複数の一人称の導入
は、パウロの仲間の一人、すなわちルカのことを指しているのではないかと思われるのです。この「わたしたち」という表現は、ルカが同行して
いたと考えられます。それらは、使徒言行録十六章十節から十七節、二十章五節から十四節、二十一章一節から十八節、二十七章一節から
二十八章十六節までに、それぞれ でています。このルカは、医者として、なんらかの眼病を患っており、 マラリアにかかり、あるいは癲癇もち
といわれたパウロの健康に気をつけました。それから、 パウロの伝道旅行のことを使徒言行録に書き、またキリストの生涯についてもそのす
べてを福音書としてまとめました。彼は知的であり、教を十分うけており、文才にたけ、勉強熱心な 超一流の歴史家でもありました。思いやり
があり、かつ謙虚でありました。後に、ローマで獄 中にあったパウロの最後を、その感情の豊かさでもって慰め、励ました人であったのです。
写真14 はスペインの画家スルバランの描きましたルカです。
彼らは、小アジアの北西の海岸にある小さな港のトロアスで船に乗りました。 普段は荒れるのに、このときは幸いなことに海は静かで楽しい
旅行になりました。彼らが船を 降りましたネアポリス、今のカヴァラへの船旅は、サモトラケで一晩停泊しまして、わずか二 日で終りました。
写真15 は、そのネアポリスの港です。エグナティア街道を歩いて数時間で、彼らはピ リピに到着しました。このヨーロッパでの途上にある最
初の小さな町のピリピで 、彼にとってその生涯の最後にいたるまで、彼の最愛の、そして最も忠実なキリストを信ずる 者の群れができるという
ことは、彼はそのときは、露知らなかったのです。
使徒パウロの上陸 したネアポリスは、紀元前三六〇年ころに、マケドニアのフィリッポス二世により攻略されま した。やがてローマの支配を
受けることになりますが、そこには丘にある天然の円形劇場や町 の壁や守護の女神の祭壇などの遺跡があります。