V 最初の教会−フィリピ
1.フィリピの建設
フィリピが歴史上、重要な町になったのは、三つの事実によっています。第一は 、マケドニアの王のフィリッポス二世が、その町を紀元前三
五六年に建設したことです。タソ ス島からやってきましたタシアン人が、フィリピを開拓しました。ところがタラース人の攻撃に あい、フィリッポス
二世に救援を求めました。フィリツポス二世は、すぐにフィリピにきまして タラース人を追い払ってしまいました。
ところが、フィリッポス二世は、ピリピが東へのルー トにあり、またパンガイオン山に金鉱のあることを知り、その町を占領し、要塞を築きまし
て 、自らの名前をつけ、自分のものとしたのです。そして、その王国を小アジアの沿岸とボスポ ラス海峡にまで広げたのです。このことが、フィ
リピの建設と同時に生まれましたその息子のア レクサンドロス大王のアジア遠征の道筋を用意することになったのです。二十年後に、アレク
サンドロス大王は、パンガイオンの鉱山の金でもって、アジア遠征の準備をしました。フィリピは、アレクサンドロス大王の制覇のための出発点
になったのではないかとされているのです。彼 はギリシア文化をインドにまで伝えました。ヨーロッパとアジアとが結びつけられ、ギリシア 語が
当時の世界の共通語となりました。このことが、キリスト教の福音があれだけ広く伝わっ ていきました重要な素地となったことをわたしたちはし
っかり覚えていなければならないと思 います。神さまの大きな働きをそこに感じますのは、わたしだけではないと思います。したが って、聖書
の旧約は七十人訳として当時の世界の共通語であったギリシア語に翻訳され、新約 は直接ギリシア語で書かれたのです。 アレクサンドロ
ス大王の時代に続きます数世紀の間は、ピリピは存続していまし たが、歴史に残るような大きな事件はなく、経過しました。しかし、紀元前四
二年になり、第二の事件が発生いたしました。
2.フィリピでの戦い
マケドニアは、紀元前一六八年になり、ローマ人に占領されてしまいます。さ らに紀元前一四六年には、南部ギリシアのコリントがローマに
より、全く破壊されました。こ のことは、古代ギリシアの終わりを意味したのです。これから後は、ギリシア人は自らをギリ シア人と呼ばなくな
り、ローマ市民となったのです。ギリシアの諸都市は、ローマの植民地に なってしまいました。その中にありまして、フィリピはあまり重要視さ
れませんでした。それは 、その地域の首都として、フィリピではなくて、アンフィポリスが選ばれたからです。それでも、 フィリピの町は戦略的に
重要な位置を占めていました。その理由は、ローマと東とを結びますエ グナティア街道の通過地点に位置していたからです。この街道により、
ローマ人はその軍隊を ヨーロッパからアジアへと移動させました。けれども、パウロたちは、武器ではなくて、福音 を携えて、軍馬に乗ってで
はなくて、その多くは徒歩で、ローマの軍隊の進んだ方向とは逆に、この街道をアジアからヨーロッパへと進んで行きました。
さて、ここで一大事件が起こります。フィリピは、そのアクロポリスの麓にたた ずむ美しい町でありました。このアクロポリスは、コーン状の山
であり、攻撃に備える天然の 防塞になっていました。また町から南にかけて、沼地の平地が続いていて、これまた南部から の侵入者に対し
天然の防禦施設になっていました。さらにフィリピには、町を囲みます高い壁が ありました。そして、エグナティア街道が、西から東へと町を横
切っていました。ところが、紀元前四四年に、ジュリアス・シーザーをローマで暗殺しました共 和党のブルータスとカシアスはギリシアから小ア
ジアへと逃亡しました。その反対勢力であっ たアントニウスとオクタウイアヌスとは、暗殺者を滅ぼすために、マケドニアのフィリピに到着 しまし
た。ブルータスとカシアスも、小アジアを後にして、フィリピに布陣しました。両者は会 戦して、決着をつけようとしたのです。アントニウスとオク
タウィアヌスは、パンガイオン山 の麓の沼地の一方の側に陣を張りました。したがって、ブルータスとカシアスを攻撃するため には、彼らは
沼地を横断しなければならなかったのです。そのことが不可能に近いということ を知っておりましたブルータスとカシアスは勝利を確信していた
のです。ところが、あにはか らんやアントニウスとオクタウイアヌスの奇襲作戦の結果、ブルータスとカシアスは敗北して 、自らその生命を断ち
ました。その戦場がここフィリピでありました。
3. 使徒パウロの到着
この町と結びつきます三つの事件のうちで、第三のフィリピへのパウロの到着と いうことが、最も重要であったように思います。パウロとともに
キリスト教はヨーロッパに入 りました。それは、人間の思想を変え、世界の歴史を変えることになったものです。ときは、 四八年秋の頃のことで
す。このとき、フィリピは毎年選挙されます二人の高官により治められて いましたローマの植民地でした。そこは、自由な体制を謳歌していまし
た。と申しますのは、 オクタウィアヌスは、ここピリピで決定的な戦いでの勝利をおさめたということを忘れはしませんでした。そこで、彼は皇帝
として、この町に多くの特権を与えたのです。ローマ人、ギリシア人、ユダヤ人、タラース人、アフリカ人は、それぞれの言葉を話すことができ、
自らの宗 教を自由に信ずることができたのです。パウロたちは、ネアポリス、現在のカバラから、フィリピにきました。 そこは、ローマの駐屯軍
の町であり、マケドニア州の主要都市でもありました。フィリピと港を 結ぶエグナティア街道に沿って歩きながら、彼らは金鉱で有名であったパ
ンガエウス山を見た に違いありません。それから、ハエマス山とパナガエウス山との間にある豊沃な平野を下って 行ったと思われます。ロー
マの駐屯地の町として、フィリピは小ローマと言ってよいような町で あったのです。その言葉はラテン語であり、法律はローマのものであり、そ
の植民地で使用さ れた貨幣には、ラテン語が刻まれていました。その都市のフル・ネームは、コロニア・アウグ スタ・ジュリア・フィリペンシス
でした。このフィリピのような植民地には、二つの型のローマ の市民が住んでいました。一つは、根っからのイタリア人でありまして、植民地に
住むように任命された人たちです。もう一つは、「政治上の転向者」ともいわれるような人々です。パウ ロもシラスも、この第二の種類の市民に
属しています。この人たちは、ローマ人のもっていた同じ権利が与えられていました。たとえば、極端な場合を除き、処罰の免除とか、逮捕から
解放するとか、皇帝に対する訴えの権利などです。この皇帝に対する訴えの権利につきましては 、パウロが後にエルサレムで逮捕されました
ときにあったこととしてよく知られている特権です。この町で、マケドニアの土着の人口がどれくらいであったのかということは分かりません 。ま
たフィリピのユダヤ人の数も、シナゴ-グをつくることができなかったといことから判断 しまして、非常に少なかったと思われます。このフィリピ
の伝道について多く書かれていること から、その記述について普通ではない高い関心のあったことをうかがわせるものです。したが って、フィ
リピでの伝道についての普通にとられているごく短い期間であったとする考えは間違 っていると思われるのです。おそらくかなりの期間にわた
ったものでしょう。このフィリピの町 は、 図10 に示されています。
写真1は、ネアポリスです。写真2、3は、ネアホリスでとったものです。