9. パウロの牢獄
街の上の部分では、そこに入りますとすぐに、左に曲がったところに、パウロ の牢獄が見られます。それは、一八七九年に発見されたもの
です。考古学者によりますと、初 めはローマの水溜めでしたが、パウロの時代になり、牢獄に変えられたということです。後に 、キリスト教の時
代に入りましてからは、それは小さな教会になりました。写真1は、パウロの牢獄の周辺です。写真2は、その牢獄です。その内部の壁には 、
写真3、4 のように、フィリピでのパウロのいろいろな事件を描きましたフレスコ画がかざら れてあります。今でも、そのフレスコ画の色彩の痕
跡を見ることができるのですが、残念なが ら、わたしの鑑識眼では、何が書かれているかさっぱり分かりません。牢獄の隣にある入り口 から
テラスに行くことができます。その左側には、ギリシア時代にさかのぼることのできる小 さな神殿の基礎が残っています。その東には、バシリ
カAの教会があり、六世紀に建てられた ものとされています。
10. バシリカA
その教会の庭に入りますと、その東側には泉があり、当時の教会にありました いろいろなものが揃っています。人々はしばらく休みまして、
手や顔を洗い、教会に入りまし た。手や顔を洗うということは、象徴的な意味がありました。神さまの神聖な家に入ります前 の信徒の人たち
の清めをあらわしたものです。その庭から前の部屋に入ります。このバシリカ Aには、二つの前の部屋があります。二つと申しますのは、外に
ある前の部屋と中にある前の 部屋とです。それは、教会のホールのようなものです。そこから、廊下を通り、メインの教会 堂に
行きます。バシリカAには、三つの教会堂がございました。そして、真ん中の教会堂から 祭壇にゆくようになっています。この祭壇には、小さな
窪みがほられてありまして、そこには 聖遺物が置かれていました。これらの聖遺物は、現在はここにはなくて、クレナイズという村 の教会に移
されています。中の前の部屋の左手の隣に、洗礼槽があります。洗礼槽は、聖遺物 とともに、初代キリスト教会にとり、欠かすことのできない
ものでした。と申しますのは、信徒となるために洗礼をほどこすことが必要であったからです。その前の部屋の壁には、かつて飾られていまし
たフレスコ画の痕跡を、今でも目にすることができます。
初代キリスト教会は、パレオ・キリスト教会と言われていました。それは古い ということを意味します。そして、それらはすべて大規模でした。
神さまは偉大な方だ。だか ら、その家である教会も偉大でなければならなかったのです。四世紀から十一世紀にかけ、キ リスト教徒は、その
教会をこの神の尺度で建設しました。しかし、そのような大規模な教会は 、建てるのに当然お金が沢山かかりました。それは、その時代の街
の人口に対し、不釣り合い な大きなものでした。そこで十一世紀になりましてからは、その必要を充たすだけの人口に比例するより小規模な
教会を建て始めたのです。
11. 岩のレリーフ
劇場の方の道に沿って、左手に岩に彫られました多くの窪みを見ることができ ます。これらは、異教の人たちが、その神々の像とそれへの
献げ物を置くために使われたもの です。今でも、岩の表面には、百八十七ものレリーフが刻まれまして残っています。タラース の神ベンディ
ス、それはギリシアのアルテミスと同じものです。それから、キュベレ、バッカ ス、さらにエジプトの神のイシス、セラピス、ハーボクレイツなど
と、異教の神々のオン・パ レードです。
12.劇場
大抵のギリシアの劇場と同様でして、フィリピの劇場も、町と同時に、紀元前四世紀に建てられたものです。それは、丘の麓に建てられてい
ます。この時代の特徴は、それは またギリシアの劇場の主な特徴でもありましたが、円の形をいたしているオーケストラの席で す。オーケスト
ラ席は、舞踏の場所を意味します。初めのころは、俳優はいなくて、ダンサー がここで舞踏を演じました。オーケストラというのは、舞踏を意味
しますギリシア語からきた ものです。観客の座席の向かいあわせのオーケストラ席の隣に、ギリシアの人たちは舞台をつ くりました。ローマの
人たちは、自分たちの時代になってからは、オーケストラ席の上に舞台 をつくりました。そして、舞台でこのオーケストラ席の半分を覆ってしま
うことが多かったのです。このような細かな点をみることにより、それがギリシアの劇場か、ローマの劇場かを知 るのに役立つのです。オーケ
ストラ席が半円の場合ですと、それは、ローマ人の建てたものか、それとも、ギリシアの劇場をローマ風に再建したことを表します。フィリピの劇
場は、ローマ 時代には、二、または三世紀に、闘技士による見世物のために使われまして、オーケストラ席は、闘技場になりました。ギリシア
時代からの壁は、いわゆる「アイソドミック」というやり 方により造られたものでして、石が正確に組み合わすことができるように削られてありま
して 、劇場の入り口のところでそれを目にすることができます。座席には、名前の書かれた指定席 もあります。 写真5、6 をご覧ください。フィ
リピの劇場は最近再建され、昔のいろいろなドラマの夏の お祭りが行われています。わたしたちがここを訪ねときは、木製の舞台の上に、日
本 の武者の人形がいくつか立っておりました。 写真7 がそれです。日本から撮影にきたすぐ後ということでした。何を演じたのかわかりません
でしたが、わたしなどは、パウロのことが 頭にあるものですから、この場所にそぐわない違和感を覚えました。
劇場からあまり離れていないところに、よく保存された町の城壁が、今でも残 っています。この町の東側に、ネアポリスの門がありまして、そ
こを通り、パウロはフィリピに 入りました。そこから西にかけて、クレナイズの門まで、フィリピの町をメイン・ストリートで あるエグナティア街道が
横切っています。