讃美歌2篇182(丘の上に十字架たつ)

3. 騒動

 テサロニケでは、パウロたちは、一年程度のかなり長く宣教しまして、ある程 度の成功を収めおさめました。けれども、使徒言行録によります

と、三週間にわたり、パウロはいつものように、シナゴーグに入ってきた多くのギリシア人や婦人たちに伝道しまして、成 果をあげたとありま

す。そこでのルカの説明によりますと、使徒は重要なメシア問題について 説教しました。パウロは、詩編22やイザヤ書53章にあるように、聖

書の旧約の預言者がメシアの受難について語っており、死んでからメシアは復活するということと、事実十字架につけられたイエスはメシア、

すなわちキリストであったということを述べました。その後送り ました手紙から、神の王国のメッセージが彼の説教の中心であったことは明らか

です。テサロ ニケの人たちに、テサロニケの信徒への手紙一  二章十二節では、パウロは「父親がその子供に対するように、あなたがた

一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、 慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなた

がたを招いて おられます」と書いています。さらに、使徒はキリストの再臨について多く語りました。と申 しますのは、テサロニケの信徒への手

紙二 二章五節に、彼がテサロニケの人たちに、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんかと問い質しているからです。

 テサロニケの中心にあるカルケオン聖処女教会の近くで、碑文が発見されまし た。それは、つぎの言葉で始まっています。これは、民数記

六章二十二節から二十六節の聖句です。

主はモーセに仰せになった。

アロンとその子らに言いなさい。

あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

主が御顔をあなたに向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように 。

主が御顔を向けてあなたに平安を賜るように。

 この碑文の書かれてある石柱は、シナゴーグのものと思われます。四世紀から 五世紀のものとされています。使徒言行録十七章二節にあ

るパウロが、ユダヤ人の集まっているところへ入って行って、三回の安息日にわたりまして聖書を引用いたしまして論じ合い ましたシナゴーグ

の上に、新しくユダヤ教の礼拝の場所が建てられたのかも知れません。 さて、パウロが後になって書きましたテサロニケの信徒への手紙と、

使徒言行録とを比較しますと、テサロニケのユダヤ人に伝えられました使徒のメッセージと、テサロニケの信徒への手紙との間に、かなりの差

があります。と申しますのは、ユダヤ人に対しましては 、聖書の旧約によりながら福音を伝えたのに対し、手紙の方には、聖書の旧約の引用

がご ざいません。このことは、その後、テサロニケの教会に集まった多くの人たちは、異邦人であ ったことを示しているものと思われるので

す。

 ところが、ルカによりますと、例のように、ユダヤ人たちは、パウロの宣教が うまくいっているのを妬みまして、街のならず者を集めまして暴動

を起こさせ、町を混乱させ たのです。ヤソンの家を襲い、パウロとシラスとを捕らえようとしたのですが、うまくゆきま せんでした。そこで、ヤソン

とその友人たちを街の当局者のところに引き立ててゆきました。 パウロとシラスは、仲間のキリスト教徒に助けられ、夜のうちにベレアに送り

出されたのです 。

 このテサロニケの人たちを、パウロがいかに愛したかは、そこに宛てて書きま したテサロニケの信徒への手紙一  二章八節に、わたしたち

はあなたがたをいとおしく思っていたので、神さまの福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほど ですと書いているこ

とにより、十分窺い知ることができます。

 ここテサロニケは、ナチスによるホロコーストで知られているところですが、リーダーの関谷先生にご案内いただき、シナゴーグに行きました。

写真1、2、3,4は、その写真です。その二階には、ユダヤ人に対する迫害を示すたくさんの写真が展示されています。写真5がそれです。

1.シナゴーグへ

2.シナゴーグ1

3.シナゴーグ2

4.シナゴーグ4

5.ホロコーストの写真

4. ベレア

 ベレアの町は、テサロニケから約八十キロ西にあります。その名称は、「多く の水のある場所」ということを意味します。この町は、紀元前九

世紀にギリシア人により建設 されたものです。紀元前一六八年に、ローマに降伏しましてからは、マケドニアの分割された 地区の一部になり

ました。アテネに着く途中、パウロとシラスは、テサロニケからこのベレア にきました。到着してシナゴーグで伝道しました。ここのユダヤ人たち

は、素直にパウロの伝 えます話を受け入れました。ところが、テサロニケのユダヤ人たちがここに押しかけてきて、 群衆を扇動しまして騒ぎを

起こしました。このようなことがありましたために、あまり長くベ レアに滞在することができませんでした。数日のことであったかも知れません。

シラスと後か らやってきたテモテは、ここに残り、パウロだけがアテネに出発しました。そして、使徒言行録十七章十四節にあるように、パウロ

はアテネでシラスとテモテがやってくるのを待ちま した。どういう事情でシラスとテモテが、後に残ったのか分かりません。

  ここベレアには、彼の栄誉を称えまして、建てられました記念碑があります。これは、町の南東の部分のコゼーン に行く道路からあまり離れ

ていないところにあります。伝承によりますと、そこにパウロが説 教した階段があるということです。写真6は、ベレアです。写真7は、その記念

碑のある聖パウロ教会です。

6.ベレア

ミカエル・モイズィキェヴィチ撮影(「聖書の世界-使徒パウロの旅-」より)

7.ベレア・シナゴーグ

(Todd Bolen,Pictorial Library of Bible Landsより)