3.アレオパゴスの丘
聖書に書かれている限りでは、パウロは、アテネには一度しか行っておりませ ん。この都市の古代の輝かしい栄光は、すでに消えて無くな
ってしまっていました。と申しま しても、アテネは、とにもかくにも、古代の偉大な文化の記念碑であることを誇っておりまし た。アテネの街で、
パウロはテサロニケに派遣したテモテが来るのを待っておりました。待ち ながら、音楽堂や劇場や祭壇を訪れたことと思います。もちろん、アク
ロポリスにも行ったこ とでしょう。パルテノンを訪れ、北の端にあるエレクティオンにもまいりました。アテネには 、人よりも神々の方が多いとい
う古代の諺のように、使徒は壁龕の中に、台の上に、神殿内に 、街路の隅に、神々や半神半獣の神々を目にしました。その中に、使徒は「知
られざる神」に 捧げられた一つの祭壇を見つけ出しました。ところがパウロはそれを単数形で表現しています が、そのような単数形で書かれ
たものは、アテネ以外でも今までのところございません。複数 形ではあります。 写真1 は、ペルガモンで発見された複数形で書かれました石
碑です。
このような偶像を目にまして、パウロは憤激したに違いありません。といいま すのは、出エジプト記二十章三節から四節にあるように、彼
は、あなたは、わたしをお いてほかに神さまがあってはなりません。あなたはどのような像もつくってはいけませんとい うことを求められます厳
しい伝統の中で育まれてきたからです。パウロはまずシナゴーグで説 教をして、それからアゴラに行きまして、最後に、アレオパゴスの法廷で
話をいたしました。 けれども、最初のシナゴーグは、まだ発見されておりません。その説きますことは、「知られざる神」の祭壇を手がかりにし
て、天地の創造 主である目に見えない神さまのことでした。ユダヤ人は、最初からこのような神さまを信じて いたのですから問題はなかった
のですが、異邦人であるアテネの人は別でした。アテネの人の 宗教心と知性とに訴えたのですが、使徒パウロの説教を聞いた人たちは、イエ
スと復活のアナ スタシスという二つの新しい神を説いているものと信じました。それらの二つの神さまは、異 教徒の聞き手にとりましては、神
と女神の名前のように響いたのでしょう。反響はいろいろで した。使徒言行録十七章十八節には、エピクロス派の人たちは、このおしゃべりは
何を言い たいのだろうかと言ったと書いてあります。おしゃべりといいますのは、小鳥などの種をつつくという意味でありまして、この言葉は、ア
ゴラで他人の思想などを受け売りしまして、何 もせずにぶらぶらして暮らす人たちを指しますその時代の俗語です。ですから、これは軽蔑と 嘲
笑の言葉です。また、真面目に関心をもち、もっと聞こうとする人たちもいました。さらに 、より自由で寛容なストア派の人たちは、その言おうと
していることを熱心に学ぼうとし、彼 をアレオパゴスにまで連れてまいりました。 写真2、3は、アレオパゴスの丘です。わたしも、この険しい丘
を登ることができました。その証拠が、写真4です。 写真5 は、その丘で、一緒にきました勇ましい一人の婦人がパウロにあやかりまして、説
教してい る姿を撮ったものです。写真6は、アクロポリスから、アレオパゴスを見下ろしたものです。