4. 碑文
このアレオパゴスの丘の麓には、 写真1,2、3 の碑文があります。このパウロの説教は、パウロ自身のものではなくて、パウロの真意を汲
んでルカが記録したものと されています。またわたしたちがきましたときは、ちょうど聖日にあたっていましたので、礼 拝をもちました。その様
子を撮りましたものが 写真4 です。このアレオパゴスの法廷においては、パウロは他の場所であったようなその不正とみなされる行為があっ
て責められたとい うことはありません。ただその説く新しい教えを聞き、直接情報をえようとしたまでです。そ の場所は、普通丘の上であるとさ
れていますが、こんな険しい丘の上にあったのでしょうか。 ですから、それは確かではありません。
ところで、パウロのアレオパゴスの丘での説教を頂点としますアテネでの伝道 は、失敗であったとされることが多いのです。確かに、パウロ
は、他の個所でやりましたよう なキリスト教会の基礎をここでは造ることができませんでした。けれども、アレオパゴスの議 員のデオヌシオや、
婦人のダマリスなどは信仰に入りました。そして、後になりまして、聖デ オヌシオの教会が建てられました。それは、アレオパゴスの丘の北側
の斜面にありました。 写真5,6 は、そのデオヌシオの教会跡です。
さて、ベレアに残したシラスとテモテはどうなったのでしょうか。アテネまで パウロを送ってきました同伴の人たちは、できるだけ早くくるように
という指示を、パウロか ら受けて、ベレアに帰りました。使徒言行録には書かれてありませんが、おそらく間もなく二 人とも、アテネでパウロと
合流したと思われます。
そこで、パウロはそこから逃げてきたテサ ロニケのことが気になりまして、テサロニケへの信徒の手紙一三章一節と二節に書かれてあるよう
に、テモテを兄弟を励ますために派遣したのです。かなりの期間がたってから、テ モテは嬉しい知らせを持って帰ってきました。パウロの心配
は、取り越し苦労にしかすぎず、 テサロニケのキリスト教徒は、信仰に堅く立ち、そしてパウロに会いたがっていることを知り ました。そこで、
パウロは早速、テサロニケの人たちに手紙を送りました。それが、テサロニケの信徒への手紙一 二章十三節から四章二節までであり、その
時期は、五十年の春のことであろうと思われます。パウロ だけが、コリントに向けて旅立って、シラスとテモテとは、コリントで再び一緒になった
のです。