Y コリント伝道
1.コリント
パウロはほかであったように、暴徒とか、あるいは官憲によりまして、アテネ から追放されたのではないことは、前に述べました。彼はただそ
の街を去りまして、五十年四月に、アカイアという名前で知られていましたローマのギリシアの属州の首都であるコリント に行きました。アテネ
からコリントまでは、八十五キロありまして、パウロは陸路を歩いて旅 したのかも知れません。そうだとしますと、途中は旅するものの難所でし
た。ギリシア神話にでてきます強盗のプロクルーテースの話はここで生まれました。捕まえた旅人を鉄のベッドに寝かせ、長
い足は切り、短い足は引き伸ばしました。
もしも、海上を旅したのであ るとしますと、ピレウスの港から船に乗り、コリントの東岸のケンクレアイの港に上陸したと思われます。ケンクレ
アイからコリントまでは、約九キロですから、パウロは歩きまして、二、三 時間で行くことができたと思います。コリントの街に入るところに、イス
トミアがあり、その先のコリント地峡に運河を造りまして、東のエーゲ海のサロニカ湾と、西のイオニア海のコリント湾とを舟がゆき きすることが
できるようにするという考えは、暴君ネロのときからありました。けれども、運河が実際に完成しましたのは、なんと一八九三年のことでした。
じゃあそれまではどうしていたかと言いますと、道路をつくりそこに舟や物資を揚げて、ローラーか、車でひっぱりました。写真1、2、3 はそのコ
リント運河です。ちょうど、舟のとおるところをきれいに写真に収めたかったのですが、うまくはゆきませんでした。 写真4、5は、ローラか車で、
舟をひっぱった道で、ディオルコスと言います。パウロは、今までに訪れた町々とは違い、喧騒を極めたコリントに近づくにつれまして、どのよう
な思いであったのでしょうか。図13、14は、コリントの周辺と、コリントの街の地図です。
古代コリントは、レカイオエンとケンクレアイとの二つの港の内陸にあり、高さ 五百七十五メートルのアクロコリントの丘の麓にあります。
一
世紀に渡り荒廃しておりましたコリントは、ジュリアス・シーザーによりまして、 ローマの植民地として再建されました。新しい定住者は、イタリ
アからの奴隷から解放された人たちであり、それと共に、ギリシア人や東方からの多くのユダヤ人なども住み着きました。 間もなく、商業的な
繁栄がもとに戻りました。またその街は、アカイアの元老院の州の行政セ ンターになり、地方総督の所在地になったのです。紀元前四四年、
ローマからの入植者たち が到着しましたとき、彼らは古代の神々をもとに戻しました。都市の中心には、多くの神殿が 建てられました。パウロ
の時代の少し前に、アゴラは二段階に分けられました。低い方のアゴ ラは、商業上の目的のために使用され、高い方のアゴラは、行政、政
治、宗教上の活動のため に使用されました。 写真6 は、当時のコリントのメイン・ストリートであるレカイオン通りです。写真7は、その通りにあ
る公衆便所です。腰をかけているのは、用をたしているわけではありません。腰かけの積りで休んでいるのでしょう。写真8は、ペイレーネの泉
です。このペイレーネの泉といいますのは、母親のペレーネが、その息子のケンキリアスを、女神アルテミスに殺され、その悲しみのあまり流し
た涙の泉になってしまいました。また 写真9 は、グラウケの泉です。写真10、11は、劇場と、音楽堂です。
2.イストミア・ゲーム
ここで、イストミアについて説明をしておきます。そこでは、二年毎にギリシアの全民族的な祭典であるイストミア・ゲームが春おそくなされる
ところでした。四九年十二月にコリントに着いたとしますと、その九ヶ月位前にその祭典がなされましたから、パウロはその余韻を感じたことで
しよう。写真12は、そのイストミアの競技場です。写真13は、運動選手です。古コリントの列柱の建っているモザイクの床で、写真14のような
絵が発見されました。勝った選手は、その手に棕櫚の枝をもち、萎んだセロリの冠をつけて、幸運の女神エウティキアの前に立っています。使
徒がコリントの信徒二 九章二十四節から二十五節に書いています「朽ちる冠」というのは、このセロリの冠のことをさします。わたしたちは、
セロリの冠をえるためではなくて、朽ちない冠をえるために走っているのだと言っていることが、このモザイクを見てよく理解できます。ところで、
このギリシアの祭典が行われるときには、遠くから多くの人があつまりました。
宿泊の施設としての天幕を沢山必要としました。当然、その補修も必要だったでしよう。コリントの人たちは、やってくる人たちのために売店を
開きました。この祭礼が大きな収入源になったことは、想像にかたくありません。パウロの心は、このようなイストミア・ゲームを通して全ギリシ
アがまとまりを見せて、いる状況を目にして、初代キリスト教会のまとまりのできることを、神さまに祈ったに違いありません。