讃美歌344(とらえたまえわがみを)

2.アキラとプリスキラとの邂逅

  コリントにおきますパウロの働きに関し、その日付を知ることのできます聖書 以外の資料があります。それによりますと、まず、クラウディウ

ス帝の治世、四一年年に、ユダヤ人たちをローマから追放したということです。そのこととの関連で、ポント生ま れのアキラというユダヤ人と、そ

の妻プリスキラは、ローマからコリントにやってきました。使徒言行録十八章二節に、パウロがこれらの二人に出会ったことが記されています

が、それはクラディウス帝の五十年であったと思われます。とすると、パウロのコリント到着と、アク ラとプリスキラ夫妻の到着との間にかなりの

期間があったことになります。写真1 は、クラディウス帝です。

  もう一つの資料は、前世紀の後半に、デルフォイで発見されました碑文による ものです。その碑文は、ガリオンのアカイア州においての地方

総督のことにつき言っています。 その碑文により、ローマの哲学者セネカの兄弟であったガリオンは、コリントでのパウロの滞在 しておりまし

たある期間、地方総督をしていたことがはっきりいたしました。それは、五一年 から五二年にかけての期間です。けれども、ガリオンはその職

務を最後まではすませてしまわな かったのです。そこで、多分、五一年の四月から七月の間に、パウロと出会ったものと思われ るのです。

1.クラウディウス帝

キリスト新聞社「バイブル・メイト」より転載

  このようにしまして、パウロは、ローマからやってきましたアキラとプリスキ ラとにコリントで出会いました。彼ら夫婦は、その後、ずっとパウロ

の協力者として、主の十 字架の苦しみを共に担うものとなったのです。彼らの仕事も、たまたまパウロと同じように、 天幕造りでした。ただし、

パウロと出会いましたときに、彼ら夫婦が、キリスト教徒になって いたと思われるのですが、そうとすれば、彼らがコリントに来たときと、パウロ

が到着したときとの間には、一方が四一年であり、他方が五十年ですから、九年ほどの差があります。その間、彼らが伝道したという形跡はあ

りません。おそらくは、ローマを追放され、厳しい現実の下に、あるいはユダヤ人社会に戻ってしまっていたのかも知れません。そのような状況

にあって、パウロに会ったことは、信仰上の新しい刺激があたえられたのだと思います。

 このアキラとプリスキラ の店がどこにあったかということは、もちろん分かりません。けれども、使徒言行録十八章三節にあるように、その

店でパウロ自身も天幕を造りました。レカイオン通りからあまり離 れていないところにあったと想像されます。と言いますのは、天幕の受け口の

穴が、低い方の アゴラで見出されたからです。パウロがその生計を誰にも頼らずに自らで立てて、伝道いたし ましたその働きの跡は、一体ど

こなのでしょうか。

  さて、もう少しコリントについて、みてみましよう。写真2、3は、アクロコリントです。そこには、アフロディテが祭られてあり、千人もの神殿娼

婦がいたと伝えられております。写真4は、アゴラ、すなわち、広場です。写真5は、アポロ神殿であり、写真6、7は、オクタウィア神殿です。ロ

ーマの威光を示すために、オクタウィア神殿が、アポロ神殿を見下ろすようになっています。

2.アクロコリント1

3.アクロコリント2

4.ローマ広場

5.アポロ神殿

6.オクタウィア神殿1

7.オクタウィア神殿2