2.アキラとプリスキラとの邂逅
コリントにおきますパウロの働きに関し、その日付を知ることのできます聖書 以外の資料があります。それによりますと、まず、クラウディウ
ス帝の治世、四一年年に、ユダヤ人たちをローマから追放したということです。そのこととの関連で、ポント生ま れのアキラというユダヤ人と、そ
の妻プリスキラは、ローマからコリントにやってきました。使徒言行録十八章二節に、パウロがこれらの二人に出会ったことが記されています
が、それはクラディウス帝の五十年であったと思われます。とすると、パウロのコリント到着と、アク ラとプリスキラ夫妻の到着との間にかなりの
期間があったことになります。写真1 は、クラディウス帝です。
もう一つの資料は、前世紀の後半に、デルフォイで発見されました碑文による ものです。その碑文は、ガリオンのアカイア州においての地方
総督のことにつき言っています。 その碑文により、ローマの哲学者セネカの兄弟であったガリオンは、コリントでのパウロの滞在 しておりまし
たある期間、地方総督をしていたことがはっきりいたしました。それは、五一年 から五二年にかけての期間です。けれども、ガリオンはその職
務を最後まではすませてしまわな かったのです。そこで、多分、五一年の四月から七月の間に、パウロと出会ったものと思われ るのです。
このようにしまして、パウロは、ローマからやってきましたアキラとプリスキ ラとにコリントで出会いました。彼ら夫婦は、その後、ずっとパウロ
の協力者として、主の十 字架の苦しみを共に担うものとなったのです。彼らの仕事も、たまたまパウロと同じように、 天幕造りでした。ただし、
パウロと出会いましたときに、彼ら夫婦が、キリスト教徒になって いたと思われるのですが、そうとすれば、彼らがコリントに来たときと、パウロ
が到着したときとの間には、一方が四一年であり、他方が五十年ですから、九年ほどの差があります。その間、彼らが伝道したという形跡はあ
りません。おそらくは、ローマを追放され、厳しい現実の下に、あるいはユダヤ人社会に戻ってしまっていたのかも知れません。そのような状況
にあって、パウロに会ったことは、信仰上の新しい刺激があたえられたのだと思います。
このアキラとプリスキラ の店がどこにあったかということは、もちろん分かりません。けれども、使徒言行録十八章三節にあるように、その
店でパウロ自身も天幕を造りました。レカイオン通りからあまり離 れていないところにあったと想像されます。と言いますのは、天幕の受け口の
穴が、低い方の アゴラで見出されたからです。パウロがその生計を誰にも頼らずに自らで立てて、伝道いたし ましたその働きの跡は、一体ど
こなのでしょうか。
さて、もう少しコリントについて、みてみましよう。写真2、3は、アクロコリントです。そこには、アフロディテが祭られてあり、千人もの神殿娼
婦がいたと伝えられております。写真4は、アゴラ、すなわち、広場です。写真5は、アポロ神殿であり、写真6、7は、オクタウィア神殿です。ロ
ーマの威光を示すために、オクタウィア神殿が、アポロ神殿を見下ろすようになっています。