讃美歌316(主よこころみうくるおり)

3. シナゴーグでの宣教

 さきに、アテネに残してきましたシラスとテモテが、コリントにやってきまし た。そのお陰で、パウロは宣教に専念することができるようになり

ました。それからしばらく して、パウロは五十年の夏から秋にかけ、もう一度、テサロニケの人たちに手紙を書いています。それがテサロニケ

の信徒への手紙一 一章一節から二章十二節までと、四章三節から五章二十八節までの部分です。そして改めて、テサロニケの信徒への手

紙二を書いたのです。パウロは、アテネでの伝道が必ずしも成功したとはいえなかったことからしまして、コリ ントでは、その伝道が成功しよう

が失敗しようが、とにかく、ただ十字架の福音を述べること に専念しました。そのことは、コリントの信徒への手紙一に書かれています「兄弟た

ち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませ んでした。なぜなら、わたしたちはあな

たがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につ けられたイエス・キリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」という言葉によっ

て分かります。 使徒がコリントのシナゴーグでどの位の長さに渡りまして教えたかは不明です 。それに、シナゴーグがあった場所について

も、正確な情報を手にすることはできません。た だし、レカイオン通りからアゴラに通じます門の通路の階段のすそに、興味深い碑文が発見さ

れました。その碑文は、長くて重いブロックの上に、[ΣΥΝΑ]ΓΩΓΗΕΒΡ[ΑΙΩΝ ]と刻まれておりました。それは「ヘブル人のシナ

ゴーグ」と書かれてあります。文字の書き 方からしまして、多分五世紀位のものでであろうと言われています。それは、使徒言行録十八章四

節にでていますパウロが説教したシナゴーグを後になりまして建て直したのかも知れません。 写真1、2 は、そのシナゴーグを造り直したもの

です。写真3は、シナゴーグの碑文です。

1.パウロ宣教のシナゴーグ1

2.パウロ宣教のシナゴーグ3

3.シナゴーグの碑文

4. ユストの家

 使徒は、シナゴーグを追い立てられて、その後、再び異邦人の向かいました。 このことは、今までにしばしばあったことです。どこでも、彼は

まずユダヤ人に福音を説きま した。ユダヤ人からの迫害をまたしても経験しましたが、さいわいコリントでは改宗者のユス トがいまして、その

家をパウロのために開放してくれました。写真4は、そのユストの家の跡といわれるものです。使徒言行録十八章七節にあるように、このユスト

の家は、シナゴーグのすぐ隣にありました。その家は、後にコリントで の教会になったものと思われます。ここでのコリントの教会ほど、パウロ

の手紙の中に、会員 の人たちの名前の出てくるところはありません。それほど多くの人たちが、ここで信仰に入っ たのです。最も初期の改宗

者には、ステファナの家族がおりました。またガイオもおりました。 それから、個々の名前はわかりませんが「クロエの家の人たち」がおりまし

た。クワルト、ポルトナト、テルテオもいました。これらのローマからきました人たちに加えまして、三人のユ ダヤ人であるルキオ、ヤソン、ソシパ

テロもいました。 コリントのアナプロガでの発掘の結果、写真5のようなパウロがこの街に滞在したころの家屋が発見されました。当時、キリ

スト教徒は、集会をもち、聖餐を行ないました。食堂には、せいぜい十数名しか座れませんでした。そこにあふれた人たちが集まってきました。

ところが、集まる人たちには、お金持ちや貧しい人たちがいました。富んでいた人たちは、礼拝の始まるかなり前から、持ちよりで食事をし、飲

んだり,食べたりしていたようです。そこで、パウロは、貧富の差のあることに気付き、礼拝の前に、自分の家で食事をすませてくるようにと勧め

ています。このことは、コリントの信徒への手紙二 十一章十七節から二十二節にでています。

4.ユストの家の跡

5.アナプロガの家

新教タイムズ「聖書歴史地図」1993 p.175.

5.エラストとクリスポ

  コリントでイエス・キリストの福音を信じた人たちは、明らかに身分からいい ますと、低い人たちでした。彼らは哲学者でもなく、家柄のよい者

でもなく、とくにある能力 のある人たちでもありませんでした。けれども、一つの例外がありました。それは、エラスト です。と申しますのは、劇

場を通ってまいります街路の北の端にある小さい古代の広場に、昔 の舗装の修理に使われたブロックが発見されました。そのブロックに、「エ

ラストはその造営 の仕事の返礼として、自分からお金を出して舗装した」と書いてありました。この碑文のエラ ストが、ローマの信徒への手紙

十六章二十三節に出てきます市の経理係エラストと同じ人物であるとしますと、コリントの教会の人たちの中に、少なくとも、一人の政治上の

エリート がいたことになります。それから、ユダヤ人よりも、異邦人たちの方が、使徒のメッセージを 受け入れましたが、これにももちろん例外

がございました。それはクリスポです。彼はシナゴ ーグの管理者でありましたが、家族と一緒に新しくできました教会に加わりました。写真6,

は、エラストの碑文です。

7.エラストの碑文2

Todd Bolen,Pictorial Library of Bible Landsより