讃美歌461(主われをあいす)

6. ガリオン

  とうとう、ユダヤ人たちの怒りが爆発して、一団となりパウロを襲い、法廷に引き立てていきました。
写真1、2、3は、そのベーマです。その

告訴の理由といいますと、使徒言行録十八章十三節にあるように、このパウロという男は、律法に違反するような仕方 で神さまをあがめ

るようにと、人々を唆しているということでした。このときの地方総督は、 前に述べた哲学者のセネカの兄弟のガリオンでありました。このガリ

オンは、告訴に対し、法廷で自分たちのことは自分たちで解決するように申しわたしました。このようにして、国家のこと に関係のない喧嘩に

巻き込まれることを拒絶いたしました。会堂司のソステネは、告訴のやり方について、、群衆に殴られたのですが、ガリオンは知らん顔をして

いました。こ のような処理の仕方は、彼の大きな行政上の知恵を証明したものです。このことは、彼に与えられた高い評価を裏付けるものだと

思います。この事件の後は、パウロはもはやユダヤ人たちにより苦しめられることなく、コリントでの宣教の働きを続けました。このようにして、

ある夜、彼に語りかけた主の幻により、彼に与えられた確信が成就したのです。ここコリントに、 一年六ヶ月滞在しました。ガリオンの前に、ベ

ーマに引き出されましたのが五十一年五月頃だと して、コリントを去りましたのは、同じ年の九月のことでありました。

1. ベーマ1

2.ベーマ2

3.ベーマ3

7. ケンクレアイからの旅立ち

 このようにして、使徒のさらに伝道に進むべきときがやってきました。アキラとプリスキラを連れました、旅立ちました。イスミア平原を横切り、

コリントの東の港である ケンクレアイに行き、そこでエペソに向けて乗船しました。この港は、パウロの時代には、すで にある程度大きな街に

なっておりました。その港は、六世紀になり放棄されましたが、教会はさらに数世紀以上存続いたしました。その位置は陥没して、二メートル

ほど低くなっています 。使徒言行録十八章十八節にあるように、パウロは何か誓願をたてておりまして、それが 達成されましたので髪を

切り、それを献げ物として燃やしました。このことは、民数記六章十六節にでています。したがって、パウロはパレスチナに向けまして航海

する前に、このよ うな聖書の教えを実行しました。わたしたちは、パウロが非常に強く律法の廃棄を宣言していることを知っています。それにも

かかわらず、なおユダヤ教の儀式のあるものを堅く守ろうと する気持ちのあったことを知ることができます。写真4、5、6は、フィベのいましたケ

ンクレアイの教会跡です。 写真7 はケンクレアイの港の描かれている貨幣です。当時その港が大変重要であったことを裏付けるものだと思い

ま す。 写真8、 は、そのそばの海辺です。 写真9、10は、海水浴場です。

4. ケンクレアイの教会跡1

5.ケンクレアイの教会跡2

6.ケンクレアイの教会跡3

7. 貨幣

Meinardus,OttoF.A.,"St.Paul in Greece,"p.86.より転載


8. ケンクレアの海辺

9.海水浴場1

10. 海水浴場2