讃美歌22(めさめよわがたま)

10. 滞在

 七〇年にエルサレム神殿が破壊されます前に、ローマの法律は、ユダヤ人社会 をつくることを決めていましたから、エフェソにもそのシナゴ

ーグがあったに違いないのですが 、どこにあったのか今なお不明です。おそらくは、儀式のための目的で、それに必要な水のあるところの近く

になければならなかったと思います。ですから、それは街の北の郊外にあったのではないでしょうか。使徒パウロは、この最初の短い滞在の間

に、安息日にそのシナゴーグ を訪問したのでしょう。ピシディアのアンティオキアの場合のように、使徒の話を聞くことによ り、シナゴーグに集

まった人たちの好奇心が呼び覚まされましたが、その滞在の期間は短かか ったのです。どうしてそんなに短かったのか、その理由ははっきり

しません。けれども、西方写本の使徒言行録十八章二十一節によりますと、パウロはエルサレムでなされるお祭りにど うしても出なければな

らないとその理由を説明しています。秋のカイサリアに向けての船旅は長く、危険なものであったと思われます。その船旅は、コリントの信徒へ

の手紙二 十一章二十五節で彼によりまして語られています難船の一つであったのかも知れません。

 すでに述べましたように、使徒言行録十八章二節、第三節には、パウロがアキラとプリスキラの二人を訪ねて、天幕造りという同じ職業であ

りましたので、彼らの家に 住み込みまして、一緒に仕事をしたことが書かれてあります。このような親しい関係をもった ことによって、間もなく、

アジアへのパウロの旅にアキラとプリスキラ夫妻は、パウロに同伴 することになったのです。ある聖書学者は、エフェソは大きくて豪奢な天幕

で有名でありました から、コリントよりもエフェソの方が天幕を造ることに魅力を感じ同行したのだとその理由を説 明しています。しかし使徒

は、健康を害してシリアに戻ろうとし、アキラとプリスキラは、そ の病気のパウロを助けるために、途中まで同伴したのだと主張する学者もあり

ます。あるいは 、この病気のために、ルカのエフェソを経由して、コリントからの旅の説明が短いことの理由で あるかも知れません。と申します

のは、物語りの語り手であるルカは、ヒポクラテスの医師の 道徳の宣誓をしました医者でありました。その宣誓とは、「わたしの職業外の人と

の交際であ れ、また同じ職業を営む者同志でありましても、そのことに関係なく、わたしが見たり、聞い たりすることは何でも、もしそれが公表

されてはならないことであれば、このようなことを極 秘に処理するために、わたしは決してそれを他に漏らしたりはいたしません」ということを規

定したものであったからです。ということで、理由はともかく、アキラとプリスキラとは、パ ウロのこれからの働きに備えて、エフェソに一緒に行っ

たのでしょう。そしてエフェソでパウロが 滞在している間に、彼の遭遇しました多くの困難に際し、少なくとも一回は、アキラとプリスキラは、

ーマの信徒への手紙十六章三節から第四節にあるように、パウロを「命がけで守った」のです。パウロが出発してからは、彼らはパウロに一緒

に行かずに、エフェソに残りま して、エフェソの教会の柱石になりました。

11. アポロ

 聖書の旧約にに大変詳しく、雄弁家でもありましたアレキサンドリアのユダヤ 人が、パウロのいないときにエフェソにやってきました。彼の名

前はアポロといいました。西方写本では、彼のことをアポロニウスと言っています。ひょっとして、そういう名前であったの かも知れません。こ

のアポロは、どこでキリスト教の信仰についての知識をえたのか分かりま せん。使徒言行録十八章二十五節にあるように、彼は主の道を受け

入れておりました。した がって、何がしかのことは知っておりました。ところが、洗礼を受けていなかったとされて います。それはおそらく、イエ

スの名によります洗礼は受けていませんでしたが、悔い改めの 象徴しての水による洗礼を受けていたものと思われます。

 パウロがエフェソに戻ってきましたとき、そこで何人かの弟子、それはヨハネの 弟子ですが、その人たちに会います。その弟子たちは、聖霊

ことについて聞いたことがなく 、ヨハネの洗礼しか受けていなかったのです。ということですから、洗礼者ヨハネ派というも のがありまして、キリ

スト教とは別に、あるいはキリスト教と競合しながら、存在していたと 思われる十分な理由があります。アポロは、イエスをキリストと認めてい

まして、イエスの初 期の宣教と、おそらく復活についても知っていたと考えられるのですが、ペンテコステや聖霊 の賜物につきましては、何も

知りませんでした。

 アキラとプリスキラは、アポロがエフェソのシナゴーグにおきましていたしまし た話を聞き、感動したのです。けれども、聖霊の力につき理解し

ていないことに気付きました 。そこで、使徒言行録の十八章二十六節にあるように、彼を招き、もっと正確に神さまの道を説 明しました。アポ

ロは聖書の旧約につきましてそれをよく勉強していましたので、ユダ ヤ人に対して十分論争することができましたし、また同時に哲学について

の知識にも優れてお りましたのでギリシア人にも対抗することができることが分かりました。そこで、アキラとプ リスキラは、アポロにコリントに

行って伝道するように勧めたと思われます。そして、おそら くは、そのときに、アキラとプリスキラが、アポロに洗礼を授けたのでしょう。このこと

によ りまして、アポロはイエスを宣教するものとなったのです。アキラとプリスキラは、彼にコリ ントの人たちへの紹介の手紙を書きました。や

がて、アポロは、コリントにおきまして広く知 られるようになり、そのために彼を支持する党派ができることになります。この党派は、おそ らくア

ポロの見事な才気と雄弁とを、コリントにおきますパウロの平明であって、しかも単純な宣教と比較いたしまして出来たものと思われるのです。

アポロは、自分の宣教が教会に党派 をつくりだすことになったことに気付きまして、コリントを去り、エフェソに戻りました。パウ ロがコリントの信

徒への手紙一 十六章十二節を書きましたときには、アポロはエフェソにおりました。使徒はアポロにコリントに帰るように勧めたのですが、彼

は帰りませんでした。

 パウロたちは、アキラとプリスキラとを残し、エフェソの人たちに、神さまの御心でしたら、また戻ってきますと、再会を約束しまして、カイサリア

に向けて船出しました。 無事そこに着いて、エルサレムに行き、教会に挨拶し、アンティオキアに帰ってきました。そ れは、五一年秋はじめの

ことでありました。

 エフェソの家屋についてみてみます。ハドリアヌス神殿の向いにある山の裾野に、七つの二階だての家があります。おそらく、そのような比較

的裕福な家庭で、キリスト教徒たちは、集まって礼拝をもったものでしょう。家屋Aの一階は、三百八十平方メートルあります。写真1をみます

と、入り口を入ると前室があり、その右には浴場があります。すぐ先には、中庭があり、(7.5×5メートル)一方、そこから大きな食堂にゆけるよ

うになっています。写真2は、床のモザイクです。

1.エフェソの家屋

Murphy-OConer OP,Jerome,"Paul-A Critical Life-"p.170.より作成

2.モザイク