讃美歌164(こひつじをば)

W 第三回伝道旅行

T 経過

1. 使徒会議

 第二回伝道旅行と第三回伝道旅行との間に、一つの大きな事件がありました。 それは、五一年一〇月頃に、の始めに、エルサレムにおい

て、割礼の問題についての使徒会議が開かれたこ とです。これは、シリアのアンティオキアの教会の中において、パリサイ派からキリスト教徒

になった人たちが、使徒言行録十五章一節にあるように、モーセの慣習に従い割礼を受けなければ、あなたがたは救われないと異邦人から

キリスト教徒になった人たちに教えていたからです。そこでそれらの人たちと、パウロやバルナバとの間に激しい意見の対立と論争が生じ まし

た。このために、パウロとバルナバとは、まだ割礼を受けていないギリシア人のテトスを 連れて、使徒や長老たちと協議するために、エルサレ

ムに行くことになりました。

 エルサレム に着きますと、一行はエルサレム教会に迎えられまして、神さまが自分たちと共にいてなさっ てくださったことを報告しました。と

ころがパリサイ派からキリスト教徒になった人たちが、使徒言行録十五章五節にあるように、異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守

る ように命じるべきだと言いました。使徒たちと長老たちは、この問題のために集まり、協議しました。議論の末、ペトロが立ってコルネリオを

受け入れた当時のことを語り、なぜ今 あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神さ まを試み

ようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じている のですが、これは、異邦人も同じことですといったのです。

すると、皆の人たちは黙ってしま いました。

  そして、バルナバとパウロが、二人を通して神さまが異邦人の間でなされまし た多くのしるしと奇跡のことを説明するのを聞きました。二人

が話しを終ると、律法を守るこ とに厳しかったイエスの兄弟のヤコブがそれに答えて、ペトロの言ったことを認め、神さま に立ち返ろうとしている

異邦人を悩ましてはならないと言いました。けれども、偶像に供えた 肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とはさけなければならな

いということを、 アンティオキアの教会の人たちへの手紙に書くべきだとしました。そこでこのことを伝えるた めに、バルナバという名のユダと、

シラスとを選び、パウロとバルナバとに同行させ、アンテ ィオキアに派遣しました。アンティオキアの教会の人たちは、この手紙を読んで喜んだ

という のが、使徒会議の結末であるとルカはいっています。 写真1、2 は、その割礼の儀式です。けれども、このルカの異邦人キリスト教徒に

も、偶像に供えた肉と、みだらな行いと、絞め殺し た動物の肉と、血をさけなければならないということを決めたとする説明は、パウロが、お も

だった人たちは、どんな義務も負わせなかったと書いているガラテヤの信徒への手紙と根本的に矛盾します。これは、食事規定に関し、双方

の理解に食い違いがあったことを意味します。でないと後におこるア ンティオキアでのユダヤ人キリスト教徒たちが、異邦人キリスト教徒たちと

食卓を共にするこ とを拒んだというような事件は、起こらなかったと思われるのです。

 ところで、これら三つの掟は、ユダヤ教の伝承によりますと、紀元一世紀にお いては、ユダヤ人もそうでない人も、人間であればだれしも守る

べきものとされていました。 迫害されて死の危険がある場合は、たとえば、安息日の遵守というようなことはときとしては 、破ることが許されて

いました。しかし、これら三つの掟は、そのためにどのような犠牲を払っても、殉教しても守らなければならないものでした。これを破るということ

は、そのために 死も覚悟しなければならなかったのです。

1. 割礼の儀式

2.サッカラのアンクマホルの墓における浮彫り 

 エルサレムの使徒会議を終えて、パウロとバルナバは、アンティオキアに帰っ てきました。パウロたちの主張したことが承認されました。 異

邦人はユダヤ人の律法にある 割礼をうけるということを強制されることがなくて、キリストを信ずる信仰のみで救いにあず かるんだという信仰の

上での一番大切なことが確立されたわけです。しかし、まだ未解決の問 題が残っていました。それは、異邦人とユダヤ人とが、信仰の交わり

をする場合に、食卓をと もにするかどうかということです。この問題が、パウロとバルナバとがアンティオキアに帰っ てきてから後に、アンティオ

キアにやってきたペトロの訪問により明らかになりました。その 後、ヤコブのところから、とりわけ律法に熱心なユダヤ人がやってきて、彼らの

意志を伝えました。その意志といいますのは、異邦人に対して律法を強要しないということは、異邦人にだ け限られた問題であって、ユダヤ人

は守らなければならないということです。ところが、アン ティオキアの教会では、ユダヤ人は食事に関する律法を無視して、自由に異邦人と食

事をして いたことを問題があるとしたのです。エルサレム教会のペトロまでが、ユダヤ人が律法を無視 することは許されないとしました。そこで

ペトロは、異邦人のキリスト教徒を裏切ることにな ったのですが、やむをえず、異邦人との食卓から身をひきました。しかも、その動きにバルナ

バまでが同調しました。 この状況を見てパウロは、憤然となり、ペトロに面と向かい、ガラテヤの信徒への手紙二章十四節にあるように、あな

たはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活をしているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活 す

ることを強要するのですかと非難します。ペトロが異邦人とユダヤ人との中にあって、その とった人間的な気持ちは理解できますが、福音の真

理に反する彼の行動は、エルサレム教会へ の気兼ねからであるとしても、全く間違っていました。だから、パウロはそれを偽善の行為だ とし

たのです。もしも、ペトロの行為が間違っていないということになると、律法をもたない 異邦人は、信仰者としての交わりを断たれてしまうことに

なります。しかしながら、ペトロや バルナバを含むユダヤ人の反撃がうまくゆき、パウロは孤立してしまいます。迫害にあって困 っていた教会を

建て直したパウロは、むしろ排撃されるような状況になりました。その背後には、アンティオキアの教会は、異邦人が多くなったものの、むしろ

ユダヤ人に同調する傾向が 強かったことによるものです。

2. 出発

 しばらくしまして、五二年四月になりまして、パウロは第三回の伝道旅行 のために、シリアのアンティオキアを出発いたしました。タルソスを

経まして、キリキアの峡 門を通り、デルベ、リストラ、イコニオム、そしてピシデヤのアンティオキアと第一回のとき とは、ちょうど反対のコースを

通り旅をいたしました。そのピシデヤのアンティオキアでは、使徒言行録十八章二十三節にあるように、第一回の伝道旅行のときに、キリスト

教の信仰 を受け入れたすべての弟子たちを力づけました。そこから、使徒はフリュギアの最大のユダヤ 人社会でありましたアパメアに行きま

した。さらに、リカス渓谷にあるコロサイやラオデキア へと進みました。そのラオデキアからメアンダー川を下りまして、エペソに着いたのです。

第二回伝道旅行のときには、聖霊に禁じられて断念いたしましたエペソに来ました。そこでは、 懐かしいアクラとプリスキラ夫婦に再会しまし

た。

 パウロたちのその後の経過につきましては、使徒言行録第十九章から第二十章にでていますが、エペソに五二年七月に到着しまして、始め

の三ヶ月間は、シナゴーグで宣 教にあたりました。その後、ツラノの講堂で二年間、教えを説きました。エペソの女神アルテ ミスの崇拝者たち

により扇動された暴徒たちのことがあり、彼はマケドニアと、ギリシアに行 きまして、コリントに三ヶ月の間滞在しました。それからマケドニアに

再び行っています。フィ リピ、トロアス、ミレトを通りまして、ペンテコステの日、それは五六年五月三一日のことで すが、それに間に合うよう

に、急いでエルサレムに帰ってきました。 さて、第三回伝道旅行の中心は、エペソでの宣教です。したがって、エペソで の伝道活動に焦点を

置きまして見ることとします。