讃美歌63(いざやともよ)


U エフェソの歴史


1. 建設

 エフェソは、
地図13 にでていますように、西部小アジアにありまして、北緯三十七度、東経二十七度に位置しています。昔のスミルナ、今

のイズミールの南約七十六キロの ところにありました古代都市です。エフェソは紀元前二〇〇〇年の頃以来、定住がなされていま した。伝説

によりますと、アテネの王コドロスの王子アンドロクロスにより、紀元前一一世紀に建設されたと言われています。そのとき、アンドロクロスとそ

の友人たちは、アポロ神殿に お伺いを立てました。すると「魚と猪とが新しい街になるところを教えてくれる」ということ でありました。 その言

葉を信じて、彼らは旅を始めました。ある土地に来まして、アンドロク ロスたちが料理をしはじめたところ、鍋から魚が跳ね上がったのです。そ

のためにまき散らさ れました火の粉が、あたりの薮に燃え広がり、驚いた猪が薮から飛び出しました。結局、アン ドロニコスに仕留められまし

た。魚と猪の神託が正しいと信じまして、その場所、そこはピオ ン山の麓ですが、新しい住まいを決めまして、コレッソスの町を造りました。ま

た猪を仕留め たところに、アテナの神殿を築きました。そのとき以来、その町の神さまはアルテミスとなっ たのです。このようにして、建設され

ましたエフェソは、約四百年間繁栄したのです。

2. リュディアの時代

  このようにして、紀元前六世紀には、その最盛期を迎えました。有名な哲学者 のヘラクレイトスは、この時代のエペソの人でした。彼は変化

自体をすべてのものの根源としまして、「万物は流転する」という言葉を残しました。当時は、エフェソの名声は、遠方まで轟 いていまして、リュ

ディア王クロイソスは、コレッソスの町からエフェソの人たちを追放しまし て、アルテミス神殿の近くに住まわせました。

3. ペルシア時代

 紀元前六世紀の後半になり、アナトリアは東部ペルシアの攻撃を受けることに なりました。ペルシアの王キロスは、短期間でアナトリアの西

部を手に入れました。このよう にして、エフェソは二度目の別の国の支配を受けることになったのです。占領はしましたが、ペ シアはエフェソの

内政には干渉せずに、アルテミス神殿の存在を認め、信仰の自由を保障しました。そこでエフェソはかつての経済力を維持し続け繁栄いたしま

した。ところが、ペルシアはそ の後、多くの国々に対すると同じように、重税を課し、兵隊や船をも供出させるようになりました。エフェソは、その

ような支配に耐え切れなくなり、イオニアの国々と連合しまして、紀元 前五〇〇年にペルシアに対して反乱を起こすにいたったのです。この反

乱は、紀元前四九四年 にペルシアがイオニヤ艦隊を打ち破ることにより、幕を閉じることになり、イオニヤ全部が支 配下におかれることになり

ました。

4. アレクサンドロス大王の時代

 その後、アレクサンドロス大王は、マケドニヤとギリシアを統一し、さらにアナ トリアからペルシア軍を一掃しました。紀元前三三四年にはエフ

ェソに進出して、民主政治の体 制を築いたのです。また税金や貢ぎ物を今までのようにペルシアに納める代わりに、今後はア ルテミス神殿に

奉納するように定めました。

 歴史家ストラボンはつぎのような記録を残しています。歴史に自分の名を残すこ とを切望していましたヘルストラタスという狂人が、奇しくもア

レクサンドロス大王が誕生した その夜に、アルテミス神殿に放火し、神殿は焼けてしまうのです。エフェソの人たちは、再建に 着手いたしまし

て、前のものよりもより立派な神殿を建てます。そのとき、大王がエフェソにや ってきて、碑文にそのことを書き留めるという条件づきで、神殿の

費用を支払うことをエペソ の人たちに申し出ました。けれども、エフェソの人たちは、そのことを望みませんでした。断る 理由をいろいろ考えまし

て、そのマケドニアの王に、あなたは神さまであり、その神さまがア ルテミスという神さまに献げ物をするということは、おかしいとしたのです。

 アレクサンドロス大王が亡くなり、紀元前二八七年に、リュシマカスがエフェソを 統治いたしました。彼はピオン山とコレッソス山との間に、町

を再建しました。その後、セレウコス王の手に渡り、さらにペルガモンのものとなり、そしてローマの支配下に置かれること となったのです。

5. ローマ帝国時代

 紀元前一二九年に、ローマの  悪政に堪り兼ねて、エフェソは反乱を起こしました が、結局は鎮圧されてしまいます。ローマ皇帝アウグスト

ゥスの誕生により、エフェソはペルガ モンに代わり、アジアを代表いたしますローマの属州のうちで最も大きな主要都市となり、最 も重要な貿

易の拠点ともなり、ローマの政治家たちの常駐するところとなったのです。一二三 年の夏には、皇帝ハドリアヌスがエフェソに立ち寄っていま

す。また一二九年に、再びここにき ました。 このようにして、エフェソは一世紀には、最も重要な古代都市になったのですが 、こには、アナトリ

ア、ギリシア、ローマ、エジプトに起源をもつ宗教の信者の人たち、ま たユダヤ教を信ずる人たちに、信仰の自由が認められていました。新しく

興ってきたキリスト 教が、だんだん人々の心に浸透しはじるようになりました。使徒パウロは、五一年の夏にエペ ソにきましたが、そのときの

滞在は短こうございました。五二年秋に再びエフェソにやってまい りました。このときには約二年半滞在しまして、宣教にあたりました。それか

ら、ネロの時代 をへまして、皇帝ドミティアヌスの時代になり、彼が非業の死を遂げることにより、それを境にキリスト教への迫害が幕を閉じるこ

ととなりました。ヨハネはこのエフェソにおきまして、ヨ ハネによる福音書を書き、エフェソでその生涯を終えました。聖ヨハネ教会の下で今眠っ

ています。

このようにして、パウロ、ヨハネ、マリヤが住んでいたとされますエフェソは、キリスト教 にとり、真に重要な場所です。四三一年には、このエフェ

ソで、第三回の公会議が開かれ、キリスト教の重要な教義が確立されたのです。

 四世紀になり、アヤソルクのヨハネの埋葬の場所に、裁判や集会のためのバシ リカで建てられますと、エフェソの人たちはその周辺に住み

始めました。さらに、皇帝ユスティ アヌスがバシリカの場所に、教会を建てるに及びまして、エフェソの人たちは、その聖ヨハネ教 会の周りに住

まいを移したのです。

6.エフェソのその後

 七世紀から八世紀にかけ、エペ ソは他のアナトリアの国と同じように、海陸の 両方からアラブの攻撃を受けました。一〇世紀から一一世紀

になりますと、ヨハネの名前にち なんで、アヤテオロゴスという名称に改められました。しかしながら、エフェソはいろいろな経 過を経まして、オ

スマン・トルコの時代になってから、完全に廃虚になってしまうのです。

 さて、写真1は、エフェソとサルディスとの間の距離を示す里程標です。このような里程標を辿りながら、パウロたちは、伝道して行きました。

写真2は、皇帝トラヤヌスが、東方遠征を描いたものです。

1.里程標-エフェソ、サルディス間

2.トラヤヌス皇帝の東方遠征