W 使徒パウロの訪問
1. 第二回目の訪問
第二回伝道旅行のときには、パウロは慌ただしくエフェソを後にいたしましたが 、そのときにいたしました、もう一度くるという約束を果たしま
すために、エフェソにやってき ました。そこでまずやりましたことは、いわゆる洗礼者ヨハネ派に属します人たちに洗礼を授 けたことです。すで
に前に述べましたように、エフェソにはバプテスマのヨハネを信奉する党派がありました。アポロは、おそらくそのメンバーの長としてのスポーク
スマンであったと思わ れます。ルカはそのメンバーを弟子たちと呼んでいますが、彼らが弟子といわれるのに相応し い真実の意味においてキ
リスト教徒であったかどうかということは、非常に疑わしかったので す。そこで、パウロはためらうことなく、主イエスの名において、もう一度洗
礼を授けました 。パウロがその手を彼らの上におきましたときに、彼らは聖霊を受けたのです。
2. アジアにおけるパウロの宣教1−コロサイ、ラオディキア、ヒエラポリス
パウロはエフェソへの最初の短い訪問の間に、ユダヤ人とシナゴーグで論争しま した。今度は約一年後の五二年の秋に、そのシナゴーグ
に戻ってきて、神の王国について語り ました。メシアの王国という考えは、ユダヤ人にとってはよく知られたものでありました。け れども、パウ
ロにとりましては、この王国がはじめられまして、確立されますのは、真のキリストであるイエスを通してでありました。コリントやその他の場所
におきまして、ユダヤ人たちは使徒をこばみました。エフェソも、使徒が説教した多くの町と同じように使徒を拒否いたし ました。
やがて、三ヶ月に渡ります宣教の後に、パウロはシナゴーグを追い立てられま した。しかし幸いなことに、彼はティラノという人の講堂を使用
することができました。その講 堂は、巡回します講話をする人に貸されたものです。パウロもその講話をする人の一人として 写ったものでしょ
う。その講堂は、アルカディアン通りに沿ってあったと思われます。西方写本によりますと、パウロは日盛りの仕事の時間の後の「五時から十
時まで」、それは午前十一 時から午後四時に相当しますが、その間、教えたとあります。
他の職人や商人と同じように、パウロはその天幕造りの一日の仕事を、日の出 前にはじめまして、昼前の終業時刻までつづけたのでしょう。
それは使徒言行録二十章三十四節にでていますが、エフェソの長老の人たちへのスピーチの中で、彼らに「ご存じのとおり、わたしたちはこの
手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです」ということを思いださせています。またコリントの信徒への手紙
一四章十二節では、自分の仕事のことを述べまして、「苦労して自分の手で稼いでおります」と言っています。イオニアの町での公的な生活
は、一様に五時、それは午前十一時にあたりますが、その時間に終 わることになっておりました。またシリアでのアタリヤでの規則によると、
油の公的な配給は一時から五時までであったということです。したがって、午前十一時以降は、使徒は彼のエフェ ソでの滞在の第一の目的で
ある宣教の業に自由に専心することができました。多くの予期しな い障害にもめげずに、二年間、この時間をパウロは宣教にあてたのです。
この間に、使徒パウロの宣教の業により、アジア州全体に渡りまして、キリス ト教の教会が成立してまいりました。黙示録の七つの教会であ
るエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの教会ができますとともに、コロサイにも 、ヒエラポリ
スにも、教会ができました。パウロがこれらの町のすべてを訪問したかどうかは 、分かりません。けれども、これらの町からエフェソにやってき
た人たちが、彼の説教を聞き、 それぞれの町に帰って行って、教会をつくりあげた場合もあったのではないかと思われます。
このようにして、一世紀の後半までに、キリスト教会はローマのアジアの属州にくまなく広が っていったのです。
ところで、使徒パウロは、ピシデヤのアンティオキアからエフェソにくる途中に おいて、リカス渓谷を下りまして旅をしたに違いありません。そし
て彼がコロサイ、ラオデキ ア、ヒエラポリスに滞在したことが十分考えられます。ですから、以下、パウロの影響下に あったと思われますそれ
ぞれ地域について見ることにいたします。
まず、コロサイですが、それはリカス川の南の小さな丘の上にありました。 写真1 はそのコロサイの遺跡を遠望したものです。また、その土
饅頭の上から、下を撮ったものと、遠くを見たものが、写真2、3です。そこでは、ヘリオス、デメテル、セレーネ、そしてエペ ソのアルテミスと共
に、異教の神々であるイシスやセラピスが拝まれていました。コロサイで の教会のリーダーは、コロサイの信徒への手紙一 一章七節にある
ように、「わたしたちと共に仕えている仲間、愛する」エパフラスでした。このエパフラスは、コロサイだけでなくて、 リカス渓谷の他の町であるヒ
エラポリスとラオディキアの福音の宣教にも、積極的でありました 。後で、パウロは、エフェソの獄中にいる間に、ラオディキアのキリスト教徒と
共に、宣教に励む ようにと勧めた回状をコロサイの人たちに書きました。
ラオディキアは、コロサイの西十九キロのところにありました。
写真4 は、そのラオディキアの円形劇場です。写真5、6は、ラオディキアで
す。ここは発掘があまり進んでおりません。写真7は、浴場の門です。ラオディキアでの教会 は、ちょうどエフェソではアキラとプリスキラの家が
教会になりましたように、またコリントで はガイオの家が教会になりましたように、ここではヌンパの家で集まりがありました。アジア におきます
大抵の教会がそうでありましたが、ラオディキアでのキリスト教徒の集りも、ユダヤ 人と異邦人との両方から成り立っていたものと思われます。
いずれにしましても、ラオディキア の教会は、黙示録にある七つの教会の一つでありました。パムッカレから流れてくるお湯は、はじめのうち
は、熱かったのですが、流れてくるうちにさめてしまいます。黙示禄を書いたヨハネは、このお湯の状態をたとえにとって、あなたたちの信仰
は、熱くも、冷たくもない。そんなこの導水管を流れてくる生ぬるいお湯のようでは駄目なんだと、ラオディキアの教会の人たちを叱責しているの
です。その導水管が、写真8、9です。写真10は、浴場と体育館の跡です。写真11は、城壁です。
リカス渓谷にある第三の町は、今日では綿の城であるパムッカレとしてよく知 られています観光地のヒエラポリスでありました。 写真12は、
綿の城を背景としてとりましたリーダーの関谷御夫妻です。 写真13、14、15 は、パムッカレの状景です。それから、写真16、17、18は、
有名なパムッカレのカルシウム・テラスといわれるものです。わたしどもが宿泊しましたホテルが写真19、20です。 写真21、22は、ヒエラポ
リスのお墓です。ここは、珍しい墓所であり、いろいろな種類の墓が揃っているとのことです。写真23は、町に入るための記念の三つのアーチ
のついた門です。写真24は、ヒエラポリスの劇場の舞台です。 写真25、26 は、劇場です。ここでも、エパフラスは活躍いたしました。この町
は、ペルガモ ンの王エウメネス二世によりまして、紀元前二世紀に建設されました。エフェソと 同じように、十七年の地震により破壊されまし
た。ここのキリスト教会もまた、地方のシナゴ ーグから発展したものです。と申しますのは、ヒエラポリスにも大きなユダヤ人社会があった から
です。外典のフィリポ行伝によると、ヒエラポリスの教会は、スタキスの家で集まりが持たれていました。
ここで、十二使徒の一人であったフィリポ、その妹のマリアンネ、バーソロミュ ーが、宣教に当たっていました。ローマの地方総督のユダヤ人
の妻でありましたニカノラの病気をなおしまして、回心させました。フィリポは最後にはヒエラポリスで殉教しました。最近に なりまして、五世紀
のこのフィリポの殉教碑が発見されました。 写真27、28、29 がそれです。この殉教碑で、フィリポの記念の日に、ミサがもたれています。わ
たしたちは、その殉教碑を訪ねましたが、そこまでの坂道の長い距離を少年が一人最後まで付き添って案内してくれましたので、 ご褒美をや
りました。写真30は、その帰り道の坂です。その途中に咲いていました花を写真に取りました。それが 写真31 です。これはカルパスという強
壮剤になる花だそうです。ヒエラポリスの教会の跡が、写真32、33、34です。