讃美歌2編167(われをもすくいし)

3.アジアにおけるパウロの宣教2−スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サル ディス、フィラデルフィア

 スミルナに移りますと、ここは今はイズミールと言われていますが、スミルナ の人たちは、その属州の首都を訪れましたパウロやエフェソのキ

リスト教徒に接触したと思われ ます。スミルナの教会がいつ造られたか分かりませんが、それは非常に早い時期から存在した ものと考えられ

ます。その町の大規模で影響力のあるユダヤ人社会が、ローマの官憲にキリス ト教徒を訴えまして、キリスト教徒に対して深刻な苦難をもたら

したのです。二世紀になりま して、若いスミルナの教会はおそろしい迫害を受けることになりました。その優れた指導者でありました初代の主

教ポリュカルポスの殉教で頂点に達したのです。

 二世紀に、スミルナの教会のエウアレステスからフリュギアにあるピシディアの アンティオキアの近くのフィロメリウムの教会に送られました

手紙には、その殉教の試練のこ とについて書かれてあります。その多くはフィラデルフィアからやってきまし十一人のキリスト教徒が、闘技場

に抛り込まれたのです。その闘技場は、地方総督のスタティウス・クオドラ トゥスとアシアーク・フィリポにより統括されていました。フィリポは、

ゲルマニカスという 若者は、野獣の犠牲になりましたがよく闘ったと称賛しました。けれども、もう一人のフィリ ギア人のクィントゥスという名の

キリスト教徒は、野獣をみると怖くなり、信仰をすてて神々 に犠牲を捧げました。それ以外のキリスト教徒は、群衆の真に残虐な貪欲を刺激す

るだけだっ たのです。そして、主教のポリュカリポスを引きずり出せと、群衆は叫んだのです。年老いたポリュカルポスが逮捕されまして、キリ

スト教信仰を撤回し、キリストから離れるように説得 されました。けれども、彼は断固として拒絶しまして、つぎのように言いました。「わたしは

八十六年間、主に仕えてきました。その間に、わたしが主を裏切っても、主はわたしを一度と して裏切ったことはありませんでした。どうして、

今更、主を裏切ることができますか。わた しを救ってくださったのは主です。」官憲は説得を続けましたけれども、ポリュカルポスは拒絶しまし

て、ただ、「わたしはキリスト教徒です」と答えるだけであったということです。こ れを聞いて、群衆は激昂し、すぐにポリュカルポスをライオンの

中に投げ込んでしまえと叫びました。けれども、アシアークはこれを拒みました。といいますのは、このときまでに、すで に闘技場は閉鎖されて

しまっていたからです。それでは、焼き殺してしまえと叫びました。地 方総督はそれに同意しました。そこで「アジアの教父、キリスト教徒の

父、そして異教の神々 の破壊者」ポリュカルポスは、静かに、気高く、決然とした勇気をもちまして、火の中でその 最後をまっとうしたのです。

彼の殉教は、一五五年のことでした。わたしたちは、カトリック の教会の中で静かに眠っているポリュカルポスを訪ねましたが、その教会はそ

のときは開いて いませんでした。 写真1、2、3、4 は、ポリュカルポス殉教の記念教会です。後から、リーダーの関谷先生から、その教会に

ある素晴らしいポリュカルポス殉教の壁画の写真をお送りい ただきました。それは、裸で柱にくくりつけられましたポリュカルポスが燃え盛る火

の中で、 処刑されている状況を描いたものです。 写真5 がそれです。

1. ポリュカルポス殉教の記念教会1

2.ポリュカルポス殉教の記念教会2

3. ポリュカルポス殉教の記念教会3

4.ポリュカルポス殉教の記念教会4

5. ポリュカルポスの殉教

(関谷定夫先生撮影)

 スミルナの北、約百十キロのところに、ペルガモン、今のペルガマがあります 。たいていの新約聖書の文書は、パピルスに書かれています

が、パウロがエフェソから書きまし た手紙は、書き物の新しい材料となりました羊皮紙、それはチャーター・ペルガメナといいますが、それに書

かれたのかも知れません。その理由と申しますと、羊皮紙は、エジプトがパピ ルスを輸出することを拒みました紀元前二世紀に、ペルガモンで

発明されたからです。その町 は、また素晴らしいレリーフのシリーズ、劇場、図書館、アスクレピウスのあるゼウスの神殿 で有名でありまし

た。 写真6、7 は劇場です。 写真8 は黙示録でサタンの座といわれていますゼウスの神殿の遺跡です。ゼウスの神殿の遺跡は、現在は、ド

イツのベルリンにありますペルガモン博物館に移されています。そこで、そのペルガモン博物館について紹介しましょう。写真9は、博物館への

入り口の階段です。写真10、11は、ゼウスの座です。写真12、13、14は、周囲の浮彫りです。 つぎに、アスクレピウスに参ります。ここに

は、医療の神さまをお祭りしている神殿があり、それから治療それ自体を行う病院があります。 写真15 は、アスクレピウスにまで行く神聖な

道といわれるものです。そのアスクレピウスへの入り口ノ祭壇が、写真16です。写真17は、アスクレピウスにある劇場です。写真18は、治療

室への通路であり、写真19、20は、治療室です。 写真21 は「知られざる神々」の石碑前のものです。 写真22 は、ペルガモンにあるエジプ

ト神の神殿のレッド・ホールです。 ペルガモンの人たちのなかには、エフェソを訪ね、パウロの説教を聞い た人がいたに違いありません。ヨハ

ネの黙示録二章十三節にあるように、後になってから書かれましたヨハネのペルガモンに宛てて出した手紙から、わたしたちはペルガモンの

教会のリーダーであったアンテパスが、激しい迫害の最中に殺されたことを知っています。そこには 、教会のメンバーがその困難に直面いたし

まして、不動の信仰を堅く守ったことが称賛されているのです。

6. ペルガモンの劇場1

7.ペルガモンの劇場2

8. サタンの座 の跡

9.ペルガモン博物館-ベルリン

10.ゼウスの座1-ベルリン

11.ゼウスの座2-ベルリン

12.浮彫り1-ベルリン

13.浮彫り2-ベルリン

14.浮彫り3-ベルリン

15.アスクレピウスへの神聖な道

16.アスクレピウス神殿入り口の祭壇

17.アスクレピウスの劇場

18.治療室への通路

19..治療室 1

20.治療室2

21. 知られざる神々の石碑前

22. レッド・ホール

 つぎはティアティラですが、ストラボによりますと、ティアティラはマケドニアの植民 地であったということです。フィリピでの使徒パウロによりま

す最初の改宗者でありましたリディアヤは、ティアティラの生まれでありました。使徒言行録十六章十四節に、リディアのことを神を崇めている

と書かれていますから、そこにはユダヤ人社会があったものと思われます。パウロの時代には、皇帝たちと一緒に崇められていましたアポロ・

ティリムナイオスが、この町の守護神でありました。何人かのティアティラの人たちが、多分エフェソを訪問しまして、パウロの説教 を聞いて改

宗したものと思われます。しかし、パウロの方からティアティラに出向いたという証拠 は存在いたしません。 写真23、24、25、26 はティアテ

ィラの町であり、 写真27、28、29 は教会跡です。 写真30 は、ティアティラのシナゴーグの遺跡を訪ねたときに、集まってきた子供たちで

す。

23.ティアティラ1

24.ティアティラ2

25.ティアティラ3

26. ティアティラ4

27. ティアティラの教会跡 1

28.ティアティラの教会跡 2

29.ティアティラの教会跡 3

30. ティアティラの子供たち

  さて、サルディスは古代リュディアの首都であり、アジアにおきます重要 な都市でありました。パウロの時代のことではありませんが、ギリ

シアの歴史家ヘロドトスにより、こんな話が伝えられております。紀元前七百年頃のことです。当時、ヘラクリッドに従属していたリディア王国

は、強力なリディアの支配者になったギスに、奇妙なかたちで、移りました。リディアのヘラクリッド王カンダウレスは、その宮殿の護衛であった

ギゲスを寵愛していました。そのギゲスに対して、自分の妻の美しさを自慢していました。王はギゲスに話しかけまして「ギゲス、わたしが妻の

美しさを説明しても、あなたはそれを信じないみたいだ。それで、妻の裸を見てみてはどうか。」ギゲスはとんでもないことと怖れました。しか

し、王はギゲスが彼女の裸を見ていることを気付かせないようにすると約束して言いました。「わたしは、お前を寝室の扉の後ろに控えさせよ

う。そこから、お前は妻が衣服を脱ぎ、それをお前はゆっくりと見ることができる。」ギゲスは。しぶしぶ承知しました。ことは、王が計画したよう

に行なわれました。ところが、一つ手違いがありました。ギゲスが寝室を出ていくときに、王妃が彼を見つけてしまったのです。後になりまして、

王妃はギゲスをよびつけて言いました。「お前はわたしの裸を見た。それで、わたしはお前に二つの提案をする。そのどちらかを選びなさい。一

つは、カンダウレスを殺して、わたしとリディア王国をとってしまうか、もう一つは、すぐにお前を死刑に処すかだ。」ギゲスは自分を救う方を選び

ました。つぎの夜、王妃は、ギゲスをそこから彼女の裸を見た同じ扉の後ろにすわらせました。王が眠りについたとき、ギゲスは彼を殺しまし

た。そして、王妃と王国の両方を手にしました。多くの市民は、暗殺された王の方の肩をもちましたが、デルフォイにおうかがいをたてた結果、

その託宣はギゲスに有利でした。 

  このサルディスは、一七年に地震によりまして破壊されましたが、皇帝ティベリウスが再建 しました。そこではユダヤ人社会は、アジアの諸

都市にまさって多くの特権が与えられていま した。けれども、パウロの時代にまでもさかのぼることのできるシナゴーグの跡は存在しませ ん。

写真31のアメリカの考古学者により、一九六三年に発掘されて再建されましたシナゴ ーグの跡は、二世紀から七世紀にかけて存在したもの

です。また 写真32は体育館です。写真33、34は、サルディスの町です。

31. サルディスのシナゴーグ

32. サルディス体育館

33.サルディス1

34.サルディス2

  フィラデルフィアは、今はアラシェヒルと呼ばれています。ここは、ディオニ ソスが崇められまして、ワイン・センターでありました。その場所

は、サルディスとラオデキア との間にあります。その町は、一七年と二三年との二回にわたり、地震により破壊されました 。けれども、ティアテ

ィラと同じように、皇帝ティベリウスにより再建されました。ここでもキリ スト教会は、シナゴーグから始まったものと思われます。 写真35、36

は、フィラデルフィアの遺跡です。 写真37 は、その街を歩いていたときに見つけましたトイレの案内の標識です。 

以上のいろいろな都市以外に、アジアのその他の属州のキリスト教会につきま しては、聖書には出てきません。しかし、具体的な名前はあが

っていなくても、使徒言行録十九章十節に、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を 聞くことになっ

」と書かれているのですから、それ以外の町にもキリスト教会が当然成立して いったと考えられるのです。

35.フィラデルフィアの遺跡 1

36.フィラデルフィアの遺跡 2

37. フィラデルフィアのトイレのしるし