4.エフェソとフィリピ
フィリピの信徒への手紙は、エフェソから書いたものです。そこで、その手紙によりながら、エフェソでのパウロの状態についてみてみたいと思
います。エフェソには、明らかにパウロを支持するグループと、支持しないグループとが、パウロの投獄を境としててきていました。どうしてそん
なことになったのでしょうか。それには、こんなことが考えられます。エフェソには、パウロがやって来る一年前から、プリスキラとアキラとが、パ
ウロのくるのをまって宣教にあたっていました。その宣教には、相当な苦労があったものと思われます。ところが、後からやってきたものが、偉
そうに権威ぶるのが厭だった人たちがいたのでしょう。パウロは、フィリピの信徒への手紙一章十五節から十七節に、つぎのように書いていま
す。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するた
めに捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不
純な動機からキリストを告げ知らせるているのです。」けれども、このような対立は、ガラテヤ書で見られるような福音の本義にかかわるような
重大問題ではありませんでした。ですから、パウロはさらに続けて、十八節では、「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とに
かく、キリストを告げ知らせているのです」といって、共にに福音の宣教にあたるものであるとして、認めているのです。パウロは、出獄したらす
ぐにでも、フィリピに行きたかった。心配事があり、彼の脳裏を離れることはありませんでした。そのことに加えて、パウロのことを親身になって
心配してくれる人たちに会いたかったに違いないのです。しかし、エフェソの方がそれ以上に重大な問題をかかえていました。それを放り出し
て、フィリピに行くことは到底できませんでした。パウロに対立する人たちがいたのです。これが、フィリピに行けなかった理由でしょう。 ところ
で、パウロがフィリピの教会のことについて心配であったのはどういうことだったのでしょうか。それらは異邦人、それからユダヤ主義者の迫害
でありました。しかし、それ以上に心配だったのは、教会の一致ということでした。フィリピの信徒たちへの手紙が三つであることは、上述しまし
た。その二番目の手紙二章三節から四節には、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優
れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と書いています。ところが、それから、さらにユウオデヤとス
ントケという具体的な二人の婦人の名前がでてきます。これらの二人は、生成途上にあります教会において、大変有力な働きをしていました。
それぞれが家の教会をもち、それぞれの支持者がいたのです。しかし、パウロはそこにあるひびわれのあることに気付いていました。それが、
教会のこれからの将来のためにならないことを熟知していたのです。パウロは、心を込めて訴えるのです。「わたしはエウボディアに勧め、また
シンティアに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて
ください」とヒィリピの信徒への手紙四章二節−三節にでております。
5.エフェソとコロサイ
エフェソでのパウロの二年三ヶ月の間、パウロは、そこでの教会形成に努めるとともに、放射状にでているローマ道路にそって宣教しました。
その一つのコロサイです。しかし、その教会にはパウロは行っておりません。その代わりに、エパフラスが宣教しました。ところで、パウロはこ
のエパフラスに、どこであったのでしょうか。それはわかりません。けれども、おそらくはエパフラスは、フィリピのリディアのように織物の販売に
従事していたものでしょう。リカス渓谷でできた織物を、いろいろな地方に出していました。知人も多く、才能もあったエパフラスに、コロサイ、ラ
オディキア、ヒエラポリスの宣教の任にあたらせました。彼はそのパウロの期待に応えまして、大きな働きをいたしました。彼はリカス渓谷の
町々に教会をつくりました。奴隷のオネシモの主人であったフィレモンを改宗に導いたのもおそらくは彼です。そのように考えないと、パウロとオ
ネシモ、フィレモン、そしてエパフラスとの関係がわからなくなってしまいます。
そのエパフラスがコロサイでの教会に問題がおこり、パウロにその対処の仕方を教えてもらおうと思って、エフェソにやってきます。あの忠実
なアルキポすら、間違った教えに走ってしまいました。そのとき、パウロの巻き添えになって、彼も牢にいれられます。二人は、そこでコロサイに
行くことができません。代役になる人がいませんでしたので、会ったこともない信徒のあつまりである教会に手紙を書きました。それが、コロサ
イの信徒への手紙です。パウロは知りもしない人たちに手紙を書いたことはありません。ですから、この手紙は例外です。また、この手紙はエ
パフラスとの合作でしょう。
やがて、パウロもエパフラスも、釈放されます。しかし、パウロはコロサイには出かけませんでした。コロサイの問題は、ガラテヤで起こったよ
うな福音の本義にかかわるようなものではなかったようです。それは、きちんとした根拠をもった考え方ではなかったようです。それで、パウロ
は後はエパフラスに任せて、もっと緊急を要した問題を抱えていたコリントに向かいます。