讃美歌136(ちしおしたたる)

X 使徒パウロの手紙

1.経過

  はじめに、これから取り上げる獄中書簡をもふくめまして、パウロが書いたと されていますいろいろな手紙と、パウロの行動との間の関係を

概観しておくことにしましょう 。

 シリアのアンティオキアをあとにしまして、パウロたちは、ガラテヤ州にまい ります。そこで、宣教の成果が上がっていることを知り、大いに喜

ぶのです。そのころ、アポ ロがコリントに到着します。パウロもやがて、エフェソに着き、アキラとプリスキラ夫婦と再会 します。ところが、パウロ

の跡を付け狙うかのように、ガラテヤのパウロの去った後の教会に 、ユダヤ主義者たちがやって来ます。

  パウロの方は、エフェソにおきまして、教会の礎をかため、その周辺への伝道が着々と成果をあげていったのです。この時分に、エパフラス

によるリカス渓谷での宣教が始まります。ところが、ガラテヤでのユダヤ主義者たちについての悪いニュースがパウロの耳に はいるのです。彼

は早速、ユダヤ主義者たちの手に乗らないようにと、ガラテヤの信徒への手紙を書きます。 そうこうしているうちに、エパフロデトが贈り物を携

えてフィリピからやってき ます。それで、パウロは、お礼のために、フィリピの信徒への手紙の最初のものを書きます。ところが、そのとき着任し

た新任の執政官がはりきりまして、エフェソの治安を確立しようとし て、パウロたちを牢獄に拘束します。そのとき、エフェソにきたエパフラスも

巻き添えになって 、牢に入るのです。牢獄の中から、つぎのフィリピの信徒への手紙と、コロサイの信徒への手紙、それからフィレモンへの手

をしたためます。投獄の期間は、比較的短くてすんだようです。そこえ、アポロがコリントから 帰ってまいります。やがて、パウロはコリントの

人たちに今はなくなってしまっているコリントの信徒の手紙一  五章九節の「前の手紙」を書きます。

2. コリントの教会に対する宣教

 ある日のこと、いつものように自分の仕事をしていたときに、コ リントからの訪問者がありました。パウロは、彼らのことを「クロエの人たち」と

呼んでいます。クロエといいますのは、コリントで実業に携わっていたご婦人であり、彼女が自分の家の者たちに、春になって、航海の季節が

始まったので、エフェソへの仕事をいいつけたものでしょう。その折に、彼らがもたらしましたニュースは、パウロの心を動揺させるものでした。コ

リントで のキリスト教徒が、自分の贔屓する教師の周りに集まり分裂していました。その一人の教師は 、アレキサンドリアのユダヤ人でありま

した大変弁の立つ改宗者アポロでありました。彼は後にエフェソに戻ってきました。それ以上に重大なことは、コリントのキリスト教徒によりまし

て不道徳な行いがなされているということでした。また自分たちの仕事の上での争いごとの解決 を異教徒の裁判に持ち込んでいました。それ

よりももっと重大なことは、聖餐の式が本来のあり方はずれてしまっていたということでございました。

 このような報告を、パウロは「クロエの人たち」から聞きました。コリントの信徒への手紙一  五章九節から十三節にあるように、パウロは今

は失われてしまってあり ませんが、すでにコリントの教会宛てに手紙を一通送っていました。そこで、真偽のほどを確かめるために、テモテをコ

リントに遣わしました。それから間もなく、教会 のメンバーであるステファナ、ポルトナト、アカイコの三人が、手紙を一通携えまして、エフェソ の

パウロのところにやってきました。その手紙というのは、性的な関係、結婚、婚約、離婚と いったことの意味を尋ねるという内容のものでした。

もう一つの大きな関心のもたれましたこ とは、異教の神殿に犠牲として捧げられました動物の肉を買うということについてでありました。 写真1

はコリントでの肉屋さんの標識でありまして、ルキウス・肉屋と書かれています。肉屋はラテン語の表現ですが、文字はギリシア語です。彼ら

はこのような肉を買うということは、どうしても異教の礼拝にむすびつくのではないか悩みました。パウロは、信仰にとりそのことは食べようが、

食べないかに関わりはない。けれども、そのことに悩む信仰の弱い人がつまづくようなことがあるから、わたしは食べないのだと勧めます。また

婦人はベールを被るべきかどうか、教会においてどのよう に行動すべきかついて困っていました。それから彼らは異言を語ることにつき、使徒

に助言 を求めたのです。そこで、今、コリントの教会で問題になっていることを知ることができました。

1. 肉屋さんの標識

Meinardus,Otto F.A."St.Paul in Greece,"p.90..より転載


  パウロは、コリントに急いでテモテに持たせて行かせました手紙、その手紙は コリントの信徒への手紙一ですが、その中でこれらの問題の

すべてについて細かく解答してい ます。そしてこの手紙の結びに、コリントを訪問したいという自分の願いを書いています。け れども同時に、

リントの信徒への手紙一 十六章八節から九節にあるように、彼は「五旬節まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開

かれているだけでなく 、反対者も多くいるからです」とエフェソでの滞在を決めているのです。 

  パウロは、結果を楽観していましたが、そうはうまくは行きませんでした。それは、霊の人の存在によるものです。この人たちは、アポロを支

持した人たちでした。そして、アポロは、アレクサンドリア出身でした。彼はそのアレクサンドリアで、ユダヤ人哲学者であったフィロンの影響を

受けていました。このアポロを支持する霊の人は、コリントの信徒への手紙一にでてくる万華鏡のようなろいろな問題の背景にありました。フィ

ロンは、天の人と地の人ということをいいます。本来、天の人が人間の理想であるが、地の人としてとどまっているのは、人間に身体があるか

らである。身体を愛するのは地の人のやることである。そこで、純粋に霊的な「栄光の主」として、イエスのことを考えた。復活のイエスというよ

うなことは、否定されることになってしまいます。パウロは、このような思想をアポロから教わりました霊の人を、コリントの信徒への手紙一にお

いて、教会の人たちの満座の中で彼らの主張を逆手にとって、糾弾します。このことに関しては、パウロは全く信仰者らしくありません。霊の人

と誇りに思っていた人たちは、逃げ場がなく、その心に大きな傷を負わせます。その間隙をぬって、アンティオキアからやってきたユダヤ主義者

が、霊の人と結託して、使徒を排撃しようとしたのです。

  パウロは少なくとも一度は、エフェソでの滞在を中断してコリントに旅行してい ます。これは、彼がそのコリントの信徒への手紙一を書きまし

てから後のことでした。明らかにコリントの教会の内部ではまだ騒ぎが収まっていませんでした。外部からのユダヤ主義者がパ ウロの影響を

なくそうとしました。彼らの指導の下に、多くのコリントの教会のメンバーが、とくに使徒と反目していました。テモテの訪問は、望ましい結果をも

たらしませんでした。そこでパウロは、エフェソからコリントに直行し、敵対者と直接会って問題を処理しようとしまし た。けれども、それは失敗

でした。がっかりしまして、パウロはエフェソに帰ってきて、自分の 働きに戻りました。その結果、彼の権威は大きく揺らぎました。 

 コリントの教会の問題は、彼の心に残ったままでした。彼は敗北を認めるわけ にはいきませんでした。そこでそれに代わるものとして、改め

ましてコリントのキリスト教徒 に手紙を書いたのです。彼らは、パウロがコリントにいる間の直接対面しているときにはへり 下っているのに、彼

らから離れるとずうずうしくなると詰りました。彼はその非難を否定しま して、彼らに自分の権威は、神さまからのものであることを思い起こさせ

ようとしたのです。 「厳しい手紙」として知られているものです。しかし、その手紙は現在は残っていません。そのときに、エフェソに滞在してい

ましたテトスに、その手紙をコリントの キリスト教徒に手渡すように頼んだのです。 パウロは、エフェソを去り、新しい宣教の地として、コリント

に匹敵するような大都市であったトロアスに移ります。成果はあったものの、滞在は短く、マケドニアに向かいます。そして、そこで、待ち合わせ

の約束をしていたテトスを一日千秋の思いでまつのです。テモテよりは年長であり経験が豊かであ りましたテトスは、「厳しい手紙」の結果を

伝えるために予定していたように、パウロにマケドニアで会いまして、コリントの教会がパウロの手 紙により、悔い改めたという良いニュースを

伝えたのです。