讃美歌313 (このよのつとめ)

3. ガラテヤの諸教会への手紙

 つぎにガラテヤの諸教会の手紙についてみます。ここでまず問題になりますこ とは、この手紙の宛先です。パウロは、その宛先を書いていな

いのでどこかわかりません。ガラテヤ・プロパーなのか、それとも広くガラテヤ州なのか明確ではありません。この手紙を書いた時期は、すでに

述べましたように、エフェソ滞在中のことでした。 

 使徒言行録十九章二十七節にあるように、「アジア州全体、全世界があがめる女神」 と書かれていますアルテミスの神殿のあるエフェソは、

宗教的な行事とビジネスの目的のために、小アジア全体から人々を引き付けました。ガラテヤ州からの数多くのやってきた人たち の間には、

ユダヤ主義者として知られていましたユダヤ教的なキリスト教を説いているものがありまして、ガラテヤのキリスト教徒の人たちのうちのだれか

が、そんな信仰をもつ人たちが 現れてきたことを知らせてきました。ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デ ルベといった町での

パウロの宣教は、実りあるものでありました。彼はこれらの教会を第二回 の伝道旅行で再び訪問しています。彼はそれらの教会をよく知って

いましたし、彼の最も忠実な助手でありましたリストラ出身のテモテを通じまして、とくに彼らへの愛着がございました 。これらのユダヤ主義者

は、律法主義者であり、イエス・キリストの霊的な祝福を受けますためには、アブラハムの子孫であるか、ユダヤ主義を奉じて割礼を受けなけ

ればならないと主張 したのです。彼らはつぎのように言うのです。教会に加わるただ一つの方法、シナゴーグを通 してであると。彼らの主張す

るキリスト教はユダヤ主義のキリスト教信仰でありました。これ らのユダヤ教的教師はパウロを攻撃しまして、とくに無割礼の者や異邦人に対

して福音を宣教 する彼の権威を疑いました。彼はイエスの直接の弟子ではありませんでした。だから、使徒と しての権威をもっていないと主

張しました。彼はエルサレムにいるときには律法を遵守しまし たが、自分にとって利益になると考えたときには割礼に固執することをしない単

なるオポチュ ニストだと非難いたしました。使徒パウロは、このような状況に直面して、ガラテヤの信徒への手紙四章二十節におきまして、「で

きることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」とガラテヤの

人たちに書いています。そのときは、彼はエフェソを去ることができませんでした。 

 ここのガラテヤの人たちは、知的な教養のあるギリシア人でもなければ、唯一 の神さまを信じるユダヤ人でもありませんでした。その地域に

は、後から侵入してきたケルト 族のガラテヤ人と、土地のフィリギア人とが住んでいました。彼らはキュベレの女神を信じ、 豊饒と癒しと奇跡と

を求めていました。ですから、キリスト教の信仰に入りましても、ユダヤ 人のような強固な唯一神教の背景はなかったのです。言葉は、土地の

言葉とギリシア語のバイ ・リンガルでありました。このようなことが、差別をうけていた彼らが、使徒パウロの福音を 喜んで受け入れたものでし

ょう。とともに、移ろいやすい一面もあったように察せられます。

 使徒パウロの宣教しました教会のグループは四つありました。第一は、フィリピ 、テサロニケといったマケドニアのグループです。第二は、コ

リントを中心としますアカイア のグループです。第三は、エフェソを中心としますアジアのグループであります。そして、第四 がガラテヤのグル

ープです。彼らのところを訪問する代わりに、彼はガラテヤ地方の諸教会と書きました。このような書き方は、手紙が一つのところではなくて、

ピシデヤのアンティオキ ア、イコニオン、リストラ、デルベの諸教会に宛てて書いたことを意味いたします。それは、 聖書の新約における最も注

目すべき文書としての回状です。パウロが最初に訪れましたときに 、彼の心の琴線に深く触れたもてなしと親切とを経験しました。彼らは彼を

神さまの使いであ るかのように、また、キリスト・イエスであるかのように受け入れました。あなたがたはでき るなら、自分の目をえぐりだしても

わたしに与えようとしたとまで言っています。ところが、 その彼らが今は福音の自由から離れ、古い習慣と伝統との絆のとりこになったのです。

ここは 、パウロの手紙の中におきまして、最も迫力のある個所です。使徒パウロにとりましては、ガ ラテヤの人たちは、自分の子供みたいなも

のでした。そこで、そのような間違った信仰に陥る ことを許すことができませんでした。その手紙は、筆記者に急いで口述され、最後に、使徒

は 大きな文字で自ら署名しました。この手紙では、パウロは信仰による神さまとの契約は、律法 と切り離されたものであり、自由と結びつくも

のであるということを強く主張しました。人はあらゆる拘束を打ち破って自由な存在なんだ。その自由を保障するのが、教会なのだ。あなた たち

は、その自由を他者を愛するためにのみ用いなさいというのです。