讃美歌6(われら主をたたえまし)

Y 獄中書簡

1. フィリピの信徒への手紙

 初代教会におきまして、使徒パウロの書きましたフィリピの信徒への手紙は、一つ以上あることはよく知られていることです。と申しますの

は、スミルナのポリュカルポス が、約八十年後にフィリピの人たちに手紙を書いたときに、彼は使徒が彼らに書いたいくつかの 手紙について

彼らに思いださせているからです。わたしたちが、現在読むことのできるフィリピの信徒への手紙として知っているものは、確かに、別々の二

つ、あるいは三つの状況にわたって書かれています。ここでは、三つに分けることにします。それは、まず第一は、四章十節から二十節までで

す。第二は、一章一節から三章の一節までと四章二節から九節までです。第三は、三章二節から四章一節までです。

 パウロは、牢獄にいる間でも彼を訪ねて来る人たちを受けいることができました。フィリピの教会の人たちが、使徒が牢獄に入っていることを

知ったときに、彼らはお金を集めて、仲間の一人であるエパフロディトを送り、事柄が解決するまで、パウロのところに滞在させました。マケドニ

アからはアジアの首都に向け頻繁に船が出ていました。ですから、エパフロディトは、フィリピの人たちからの贈り物を容易に手渡すことができ

たのです。パウロは、この親切な行為に対して答えておりまして、ある学者はそれがフィリピの信徒への最初の手紙とするのです。それが四章

十節から四章二十節までです。フィリヒの教会の人たちは、監督とか執事とかが責任者となり、パウロの居場所をしょっちゅう確かめながら、援

助の手を差し伸べました。エフェソやコリントに比較して、より富裕であったとは考えられないフィリピの人たちが、このような行為にでたことは、

パウロの宣教に直接参加しようとする意欲のあらわれだったと思います。このような援助は、ときには、誤解を招いたことと思います。というの

は、パウロは、エルサレム会議の後、エルサレムの貧しい人たちのための献金を始めていたからです。そのお金と区別するための言葉が、こ

こに表されているようです。

 ところが、不幸なことには、エパフロデトはパウロが牢獄から出てくるのを待 っている間に病気になりました。そして、病気が治るとフィリピに

帰ってしまいました。パウロ が獄中にいるのに、フィリピに帰ってしまったことにつきまして、エパフロデトを弁護するため に、二番目の手紙を書

きました。それが、一章一節から三章一節までと四章二節から九節です。エフェソの獄中において、使徒は他のさまざまな教会の兄弟姉妹た

ちの愛と献身 とに接することができました。同時にそれにより、福音の宣教がどんどん進んでいっている状 況を肌で感じとっていました。パウ

ロは、フィリピの信徒への手紙一章十二節から十四節におきまして、つぎのように書いています。 「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、

かえって福音の前進に役立ったと知 ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、そ の他のすべて

の人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれ ているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、

御言葉を語るようになったのです」と。

 パウロは監禁されたままであり、判決はまだ下っておりませんでした。その結果は、は、執政官の判断に全面的に依存していました。その決

定は、執政官の個性とその裁判の性格によるだけでなく、その囚人のもたらす影響の程度に依存しました。パウロは、金持ちではもちろんな

く、しかも、よそ者でした。パウロ は無罪になることを確信していたように思われます。けれども、この希望と確信があったもの の、彼はなお有

罪の宣告の可能性のあることを考えていたようであったのは、そのような事情によるものです。牢獄につながれた状況はそんなに厳しいもので

はありませんでした。「兵営」とか「皇帝の家 の人たち」という言葉は、彼がローマ総督の豪華な建物に駐屯していました兵士のある人たち を

知るようになったことを示しています。彼は自分の確信を彼らと共にしました。そして、彼 ら何人かはキリスト教の信仰を受け入れたのです。

  釈放後に、ユダヤ主義者への警告をフィリピの教会の人たちに送ったのが、第三の手紙であり、三章二節から四章一節までです。

2. フイレモンへの手紙

 パウロがまだエペソの獄の中にいたときに、テモテとエパフラスと共に、コロ サイの教会の信徒でありました主人のフィレモンのところから逃

げたと思われます若い奴隷のオネシモが、パウロに会うために、エフェソの牢獄までやってきました。彼は逃げたときに、主人 のものを盗みま

した。オネシモは、どうにかしてパウロが自分の罪を主人のフィレモンがゆるしてくれ、さらに奴隷から解放してくれないものかと期待してやって

きました。アルテミスの神 殿が盗賊や借金をした人たちや殺人を犯したような人までも、逃げてくる場所として公けに認 められていました。日

本にも駆け込み寺がありました。そのことを思いおこしますと、オネシモがエフェソに逃げてきましたことは、もっともなことのように思われるので

す。オネシモは、 このエフェソにおいてキリスト教の信仰に入ったのです。

 パウロはひどく悩んだに違いありません。けれども、彼はオネシモの主人のフィ レモン、それから信仰の姉妹とよびましたアピヤ、パウロが戦

友とまでも名付けましたアルキ ポたちに対し、自分のなすべきことが次第に明らかになったものと思われます。と申しますの は、その人たち

は、パウロがリカス渓谷を通って旅をしたときに、パウロによりキリスト教信仰に改宗した立派なキリスト教徒であったからです。フィレモンへの

手紙の第十三節にあるよ うに、「福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらって」もよいというこ とでありまして、パウロは

オネシモを自分のところに留めておきたかったのです。とは申しま しても、過ちを犯したオネシモを主人であるフィレモンのところにどうしても送

り返さなければ ならないと感じておりました。したがって、テキコにこのオネシモを託しまして、送り届けたのです。そのときにそのテキコが携え

ましたのがこの手紙です。パウロは、フィレモン、アフィア 、アルキポとその人たちの家で出会いました教会の人たちに手紙を書きました。その

手紙には 、彼らに対して、オネシモを信頼のできるキリスト教徒として推賞いたしまして、フィレモンに 命令ではなくて、キリストの愛により彼を

赦し、愛する兄弟として受け入れるように切々と訴 えているのです。オネシモは、主人のところに帰ることによりまして死ぬことになるかも知れ

ませんでした。と言いますのは、パウロの時代には、奴隷の主人は、逃亡した奴隷に対してど んなことでもすることができました。オネシモは、

拷問にかけられたり、それとも闘技場で野 獣の中に投げ込まれたかも知れなかったのです。パウロは、このことを知っていましたので、 フィレモ

ンに対する訴えの中において、教会全体に渡りまして道徳的な感情がまとまるようにと 、権威をもって書き記したのです。パウロのコロサイの

信徒への手紙四章七節から九節 に書かれていることから分かりますように、オネシモはコロサイのテキコと一緒に、主人のも とに帰ったもの

と思われます。明らかに、フィレモンはただオネシモを受け取っただけでなく、 彼を奴隷の身分から解放いたしました。

 約六十年経ってから、シリアのアンティオキアのイグナティオスが、スミルナ からエフェソの教会に宛てて一通の手紙を書いています。その中

で、彼は繰り返し繰り返し、監督オネシモのことに触れています。もちろん、ほぼ一〇七から一一七年にかけてエフェソの監督 でありましたオ

ネシモが、パウロがフィレモンのところに送り返しましたオネシモと同一人物で あったかということは、確かなことではありません。けれども、そ

ういうことが全然なかった とも言い切れないのです。

 もう一つ、オネシモにまつわるつぎのような言い伝えがあります。それは、パウロのいくつかの手紙を残したのは、オネシモではないかという

ことです。聖書が残されてい ること自体が奇跡です。当時は写本の時代ですから、誰かが筆写しなければなりません。そん なことを公然とや

れたのは、キリスト教が公認されてから後のことです。それまでは、迫害の中をくぐりぬけて、残しました。パピルスに書かれたのですが、乾燥

地以外のところでは、そ れはせいぜい百年しかもたないそうです。ローマ時代の有名な著書が現代まで残っているのは 皆無です。けれども、

聖書は残りました。それはちゃんとしたところに保管してもらえない素 人の作った地下出版のパピルスに書かれた聖書が、二千年後のわたし

たちが読めるのです。もっと不思議なのは、パウロの手紙が残っていることです。手紙というものは、もらった人だけ が読むものでありまして、

公けにするものではありません。そうしますと、誰かが一生懸命になってパウロの手紙をまとめたに違いありません。とりわけ、フィレモンに宛

てた手紙は、それ があることを知っていたのは、パウロとフィレモンと、そしてオネシモの三人だけです。そうしますと、パウロの手紙をまとめま

したのは、フィレモンかオネシモということになるのです。