3. コロサイの信徒への手紙
コロサイは、ラオデイキアとヒエラポリスと共に、リカス渓谷の三つの教会の一 つでした。パウロはラオディキアとヒエラポリスの教会を訪問し
ていますが、コロサイの教会には行っ たことは、ありません。けれども、彼はコロサイの信徒への手紙第二章第一節に、「ラオディキアにいる
人々のために、また、わたしと直接顔を合わせたことのないすべての人 のために」とあるように、その教会にも大きな関心のあることを述べて
います。 ]
その地域のキリスト教徒は、パウロのメッセージの単純なことに失望しました 。そこで、彼らはその古い哲学と東洋の信仰や考えなどのいろ
いろな混合の形態をとります複 雑な礼拝の形式を取りいれたのです。彼らにとりましては、キリストは多くの神秘的な神々の 一つにしかすぎ
ませんでした。ちょうど現在キリスト教の相対化がわたしたちの周囲でなされ ているようなものです。この新しい教えは、キリスト教の唯一であ
り、ほかには救いはないの だという信仰を脅かすと共に、一般のキリスト教徒の上に、それより優れているとするグルー プをつくりだしたので
す。彼らは、物体は罪で汚されており、したがって、受肉のキリストは 天使よりも劣っているとしました。そこで、パウロはそのような考えが間違
っているという回 答を、この手紙により与えました。
さらに、このコロサイの信徒への手紙には、ヒィリピの信徒への手紙もそうですが、当時すでに教会で使われていました讃美歌を、パウロが
キリスト教の信仰をより明確にするために、修正をくわえて引用しております。それらは、コロサイの信徒への手紙の一章十五章から二十節ま
でと、フィリピの信徒への手紙の二章六節から十一節までです。ということは、使徒パウロは決して自分の編み出したキリスト教を伝えようとし
たのではないことが明らかです。
またパウロが、この手紙の中で書きましたコロサイの信徒への手紙三章十八節から四章一節にある「家庭訓」として知られるようになりまし
た教えを引用いたしましょう。
「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛し なさい。つらく当たってはならない。子供たち、どんなことについ
ても両親に従いなさい。 それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけな いからです。奴隷たち、
どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうと してうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何を
するにも、人に対し てではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐとい う報いを主から受け取るという
ことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているの です。不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔ては
ありません。 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天にお られるのです。」
この家庭訓のような教えは、パウロの他の手紙の中にはありません。どうしてこんなものが、ここに入ってきたのでしょうか。神秘的な密儀の
礼拝に心うばわれることなく、現実の生活の中で、キリストを信ずるものとして生きなさいということでありましょう。
また、このような勧めは、第三章第十一節の「、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由
な身分の者の区別はありません」というパウロの言葉と矛盾するようです。しかし、パウロは奴隷の解放ということは、少しも問題にしておりま
せん。むしろ、キリストにより示された愛により、お互いが結びあわされることを重要視しました。それを進めてゆくのに障害になる場合にのみ、
社会制度を改めようとしたのではないのでしょうか。
エフェソでのパウロの状況は、彼がコロサイの人たちに手紙を書いたときには悪 くなっていました。と申しますのは、彼の忠実な協力者たち
の多くが、彼の苦難を耳にして、 そのダイアナの街に集まったからです。パウロと一緒に牢獄に入りましたのは、テサロニケの 教会のアリスタ
ルコでありました。またバルナバの従兄弟のマルコもきていました。これまで 分かれていたマルコとパウロとの関係は、そのときには仲直りが
できておりました。イエス・ ユスト、コロサイの教会の監督エパフラス、「愛する医者ルカ」、それにデマスがいました。 これらの人たちは、少な
くとも名前だけはコロサイの人たちに知られていました。それで、パ ウロは、その人たちの名前を挨拶の中に付け加えて、手紙を書いたので
す。
終わりには、「ニンファと彼女の家にある教会の人々」への挨拶と、「この手 紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも
読まれるように、取り計らって ください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでくたせさい」と指示 しています。ところ
がわたしたちは、ラオデキアの信徒への手紙につきましては、何も知りま せん。けれども、それはひょっとすると、パウロの書きましたフィレモン
への手紙か、それ ともエフェソの信徒への手紙であるかも知れません。
六〇年に、パウロがコロサイの信徒に手紙を書きましてから数年後に、コロサ イの町は激しい地震に見舞われて破壊されてしまいました。
再建されましたが、以前の繁栄を 取り戻すことはできませんでした。コロサイの人の多くは、フリュギア人でありました。哲学者のキケロによ
ると、ここには大きなユダヤ人社会があったということです。九世紀の始めに なりまして、コロサイは破壊され、今は土饅頭のような跡が残って
いるだけです。わたしたち は、この巨大な土饅頭を踏みしめながら、いつの日にかコロサイの町の全体が明らかになるこ とを願ってやみませ
んでした。このコロサイは、その後、新しい町であるコナエに移りました 。それが現在のホナツです。昔のコロサイは、そこから南の数キロのと
ころにあります。その コロサイという町の古い名前が全く忘れられてしまいまして、中世には多くの人により、古代 世界の七不思議の一つであ
るあの有名なコロッサスのあったロドス島の住民であると考えられていました。