讃美歌312(いつくしみふかき)

Z エフェソの出来事

1. 投獄

 使徒パウロをめぐり、エフェソではどんな出来事があったのでしょうか。まず第 一に、投獄について見ることにします。パウロがエフェソでの二

年と三ヶ月に渡る滞在中に、投 獄されたということにつきましては、ルカは書いておりません。けれども、パウロ自身は、ア カイア、マケドニア、

アジアの諸教会との文通の中で、繰り返しその受難について言及してい るのです。どういう理由でパウロが投獄されたのかということは分か

りません。ある学者によ りますと、エフェソにいますユダヤ人たちがうまく申し立てて、エルサレムに毎年送ることにな っています献金を他のこ

とに流用したことを非難したのだと。そのために、ユダヤ人たちがロ ーマの総督ユニウス・シラナスに近づき、パウロを投獄するようにと説得し

たのだと言ってい ます。この総督ユニウス・シラナスは、ネロの母のアグリッピナがその息子の競争相手になる ことを恐れまして、エフェソに駐

屯していたときに、彼女により殺害されました。

  コリントの教会に宛てて書いたコリントの信徒への手紙二  一章八節から九節におきまして、「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦

難について、ぜひ知ってほしい。 わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みみさえ失ってしまいまし た。わたしたちとしては

死の宣告を受けた思いでした」と書いています。また別の機会には、彼はエフェソで野獣と闘ったことを書いています。

 また外典のパウロ行伝では、使徒の投獄のことについてもっと詳細に記してい ます。エフェソの人たちは、パウロの説教に立腹して、ライオ

ンの餌食にするために投獄しまし た。高い身分であったエフェソの人の妻であったエウボラとアルテミラとが、夜、パウロから洗 礼を受けようと

して牢獄にやってきます。不思議なことには、パウロを繋いでいた鉄の鎖がほ どけまして、その二人と一緒に海岸に出て、洗礼を授けました。

それから、彼は外に出たこと を見張りに気付かれることなく、再び獄に戻りました。さらに、パウロ行伝の別のところで、 使徒がエフェソで野獣

と闘ったことについて説明を付け加えています。外典の物語りによります と、巨大な他に例のない力のあるライオンをパウロにむけて放ちまし

た。ところが、そのライ オンは競技場の中にいる彼のところに走ってゆきまして、彼の足元にうずくまったとあります 。ライオンも、他の残忍な野

獣も、パウロに触れなかったのです。最後には、激しく大量の雹 が降ってきまして、多くの人々や野獣の頭を打ち砕いてしまい、使徒の命は

助かったというの です。

  闘技士のショーや競技は、エフェソではよく知られていました。と申しますのは 、闘技士は紀元前七〇年にルクラスによりアジアのローマの

属州に導入されたからです。エフェ ソの人たちは、放蕩や残酷なスポーツやショーや、それからパントマイムとか古代ギリシアの 好戦ダンスに

興じていたと言われています。ヴェディウス体育館の近くにある有名な競技場は 、パウロのときにはすでに利用されておりました。ここで、群

衆は闘技士がライオンや狼や野 獣と闘う果たし合いに熱狂して大声をあげておりました。またここで、市民はアルテミスを崇 めますお祭の群

がり集まったのです。

 パウロのエフェソにおきます野獣との闘いを文字通りにとるべきかどうかは、わ たしたちには分かりません。けれども、大変なことがあったと

いうことは、ローマの信徒への手紙十八章三節から四節にあるエフェソのキリスト教徒に対しますフィベの紹介の中での 彼の挨拶から明らか

です。そこには、「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者になっている、プリスキラとアクラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれた

この人たちに、わ たしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」と書かれてあります。

 エフェソの地方の言い伝えによりますと、そのパウロの牢獄としまして、港の近 くにある大きな正方形の塔をあげています。その建物は、コレ

ッソス山の西の端にありまして 、紀元前三世紀に建てられました街の防壁の重要な部分でありました。その丘は、塔の中にあ る碑文により、

アステュアゲスの丘であることが判明しましてからは、アステュアゴ・パゴス として知られるようになりました。けれども、わたしたちはアステュ

アゲスがどんな人であっ たか知ることはできません。しかし、この名前は、一七世紀の西欧の何人かの旅行者の書きま したものの中に出て

きます。 写真1は、その牢獄です。


1.牢獄

2. 使徒と祈祷師

  パウロの書いたものによりましても、またルカの書いたものでも、そこに起こ った事件が何時生じたかが分かりません。したがって、それらを

年代順に並べることはできま せんが、ルカによりまして記録されました出来事の一つに、使徒がエフェソの祈祷師に対して行 った事件があり

ます。それを見てみましょう。

 パウロの奇跡の力もよく知られるようになりました。彼の書いたコリントの信徒への手紙二十二章十二節におきまして、つぎのように言いまし

て、パウロがコリントの 人たちの間で行った奇跡について、コリントの人たちに思い出させています。「わたしは使徒であることを、しるしや、不

思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証して います」と。リストラでは、足の不自由な男を治しています。フィリピでは占い

の霊をもった 奴隷の少女を祓い清めています。ずっと後のことになりますが、マルタ島では、島の長官のポプリオの父親の熱病と下痢とを癒し

ました。彼はこういったことをエフェソでも行ないまして、そ の結果は、ついには篤信の人のハンカチやエプロンが使徒に触れ、それを病人のと

ころにまで 持って行って触れさせると、病いが治癒するということにまでもなりました。キリストの服のすそ、あるいはペテロの影と同じように、

パウロの衣服が奇跡的な癒しの力をもつものとして 迷信にとらわれるように信じられたのです。

 エフェソは、東部ローマ世界のいろいろな都市のうちでも、とくに魔術の研究と それを行うことのセンターとしてよく知られていました。おそらく

は、ピシディアのアンティオキア、コリント、そしてシリアのアンティオキアより以上に、この商人と船員、娼婦と放蕩者 との街には、占い師とお

守りの御用商人が群がり集まっていたのでしょう。フィラストラトゥ スの書きました「ティアナのアポロニオスの生活」という著書には、エフェソの

人たちのことを 記述していますつぎのような個所があります。「彼らは踊り子にうつつをぬかし、パントマイ ムに興じ、街全体が遊興で満ち、気

力のないごろつきで一杯であり、喧騒に溢れていた」と。 アルテミスの神殿が焼失したとき、エフェソの魔術師は「アジアの大きな天罰であり、

破壊者」 がでてくることを預言しました。それはアレクサンドロス大王が、同じ日に生まれたことを意味 したのです。一世紀の後半におきまし

て、エフェソでの異教礼拝の重要性は極めて大でありまし たので、皇帝ヴェスパシアヌスは、ローマからすべての魔術師や占星術師を追放し

ておりまし たが、それにもかかわらず、エフェソではバルピラスという名の有名な占星術師をかかえていた のです。

 イエスの名において 悪霊を払い清めるということは、初代教会におきましては 広く行われていました。けれども、ユダヤ人の巡回教師がパ

ウロの説きますイエスの名におい てそれを行うということは、明らかに権威の侵害でありました。ところが、彼らの試みは成功 しませんでした。

それどころか、彼らが統制しようとした悪霊により、反対に圧倒されてしま ったのです。この物語のポイントは、癒しとか悪魔払いとかは、苦し

んでいる人の信仰による こと以上に、癒しをする人の誠実さによることを、すべてのキリスト教徒に教えることを意図 したものでありました。

 この事件の結果、エフェソの何人かの魔術師はキリスト教に改宗しました。彼ら は、天井知らずの値のつきました魔術に関します本を集めま

して、公衆の面前で焼いてしまい ました。これらの本の中には、それを持っている人は何の災いも受けなくてもすむと信じられ ていたお守りで

あったエフェソの手紙も含まれていたと思われます。そのお守りをつけましたレスラーは、三十回勝利を収めることができたと言われました。け

れども、もしもそれらが発見 されたり、相手に取り除かれたりしましたならば、たちどころに打ち負かされることになって いました。クロイソス

は、荼毘用の薪の上に載せられたときに、そのお守りの呪文を唱えるこ とにより、生きたままで、焼き殺されなくてすんだと言われています。

魔術師たちは、悪霊に 取りつかれた人たちに、エフェソの手紙を暗唱させまして悪霊を払うことを常としたのです。そ れらの言葉は六つありま

して、アレクサンドリアのクレメンスは、闇、光,地、年の四季、太 陽、真理であったと申しています。

  こんなことがありましてから、パウロはマケドニアとアカイアに向け、エフェソ を去ってもよいと思うようになりました。そこで、自分に仕えてくれ

ている者の中から、テモ テとエラストの二人をマケドニアに送り出しまして、彼自身はしばらくエフェソに留まっていま した。そのときに、使徒パ

ウロのエフェソでの銀細工師の騒動が持ち上がったのです。