3. 銀細工師の騒動
パウロはペンテコステの祭の日まで、エフェソに滞在する計画をたてていました 。と申しますのは、コリントの信徒への手紙一 十六章九
節に「わたしの働きのために大き な門」が開かれていたからです。何人かの学者は、ここでの「大きな門」とは、アルテミスの ための毎年のお
祭りのことであると言っています。そのお祭りは、宣教の働きをするのにちょうどよい場を提供してくれたのです。と言いますのは、そのお祭りの
期間には、街は小アジア 全体からやってくる人で溢れたからです。祭りは四月、あるいは五月あたりになされました。
銀細工師の騒動の現場は、有名なエペソの劇場です。それは 写真1、2、3 にでています。 写真4 はその出入り口です。この劇場は、ア
ジア州におきます最大のものの一つであ りまして、二万五千人の観客を収容できました。その劇場は、ピオン山の西側に傾斜面に ある大理
石通りと、アルカディアン通りの交差点のいわば街の中心にあります。劇場では、ま た月に三回市民の会議が開かれておりました。その会合
は、エフェソの街での重要な立場を占めていました街の書記官によりまして議事が進められました。
パウロの説教は、アルテミスの銀の神殿の模型の商売を脅かすものでありまし た。けれども、この模型は、まだ発見されていません。一〇
四年にできました碑文が、劇場に 続いています南側の通路の壁の一つに見出されました。それには、ビビウス・サルタリスの献 納物のことが
詳細に記されています。この献納物は、二十九の像から成り立っていまして、デ メトリオスとそのお付きの職人の造ったものとよく似ているの
ではないかと思います。金と銀とから出来ていまして、その重さはそれぞれ一・五キロから三キロございまして、二頭の牡鹿 のつきましたアル
テミスの像と、さまざまな何かを象徴しています像とでありました。これら は、多分アルテミスの神殿に奉納されたものと思われます。
アルテミスの女神は、かつてはニンフを伴い山や森を徘徊いたし ます荒野での狩猟のための処女神でした。また小さい子供の治療や赤ん
坊のための食べ物の神さまでもありました。ギリシア神話には、こんな話があります。夏のことです。狩猟にでかけ疲れたので、ニンフたちを連
れて泉で水浴をしていました。同じ場所に、アクタイオンがやってきまして、裸の女神を見るのです。女神アルテミスの怒りに触れたアクタイオ
ンは、雄鹿にさせられてしまいます。挙げ句のはて、自分の狩猟犬によって、づたづたに引き裂かれ、死にます。ところが、もう一人のクレタン・
シプロイテスは、同じように、女神の裸を見るのですが、彼は男性から女性へと変わりまして、難を逃れます。
エフェソでは、アルテミスは狩猟の女神ではなくなりまして、それは豊饒の女神となり、 偉大なアジアの母である女神となっていました。彼
女は首から腰まで小さな形をしました沢山 の乳房に覆われていました。彼女の足は溶けまして一緒になり、像は柱のようになっています 。使
徒言行録十九章二十七節にあるエペソのアルテミスは、アジア州全体、全世界によっ て崇められているとするデメトリオスの主張は、お
祭りに出席しました非常に多くの巡礼者が あったことがそのことが裏付けています。神殿におきます女神の像は、天から降って来た超自 然の
起源をもつものとされたのです。パウロは手で造ったものなとは神ではないと説教しまし た。それに対して、エペソの街の書記官は、この女神
の像は人間の手によって造られたもので はないと答えることにより、パウロを非難いたしました。銀細工師の仲間によりまして建てら れました
像の基礎が、ハドリアヌス神殿の下の方約三十メートルのところにあるクレテス通り に沿いまして並んでいます石の間にあります。デメトリオス
は、多分その仲間の一人であった と思われます。デメトリオスがギルドの組合員を呼び集めまして、パウロの教えが自分たちの 職業を成り立
たせなくなると言ったために、彼らは怒りまして街路に突進しました。そのはず みで、他の人たちも劇場になだれ込みました。群衆の多くは、
その騒動がどんな理由で起こっ たのか知りませんでした。ただ、漠然と街の女神に関する問題であるというぐらいのことしか 知っていませんで
した。劇場にゆく途中で、群衆は使徒の仲間のうちの二人であるガイオとア リスタルコを掴まえました。ガイオは、ガラテヤのデルベからやって
きていて、アリスタ ルコは、テサロニケからきていました。ユダヤ人たちは、アレクサンドロスという名前の男を 前に押し出して、群衆に向かっ
て弁明させようといたしました。それは、おそらく群衆がユダヤ人たちの偶像に対する敵意に対しまして反抗してくるのを恐れたからであると思
われます。
このアレクサンドロスは、後になりパウロを大いに苦しめましたアレクサンドロスという名前 の銅の細工師ではないかと想像されるのです。そ
れはそれとしまして、群衆は彼の話なんか聞 こうとせず、使徒言行録十九章三十四節にあるように、二時間あまりも「エフェソ人のアルテミス
は偉い方」と叫び続けました。その騒音は大変なものであったに違いありません。と申 しますのは、その劇場の音響効果は、今日でも素晴ら
しいものであるからです。
街の書記官は、とうとう群衆を鎮めようとしました。彼は人々にアルテミスの 偉大さが危なくなったのではないこと、キリスト教徒が神殿を荒ら
したのでもないこと、それ から女神を冒涜したのでもないことを告げました。そして苦情やそのための議論に対しては法 廷が開かれているの
でそこで問題にしたらよいと申しました。彼はまた、本当に危険なことは 、彼らの商売が成り立たなくなることではなくて、むしろ暴動を起こした
ことの罪に問われる ことだといいました。そうなったら、ローマの官憲がエペソの街を罰することになりますよと 説得いたしました。
パウロは、自らを弁明するために群衆の中に入ってゆこうといたしました。し かし弟子たちと、パウロの友人であって、アジア州の祭壇をつか
さどる高官とにより、引き止 められました。この高官は、ローマと皇帝礼拝というアジアの政治的、かつ宗教的な団体に対 し責任のある属州
の官吏でありました。彼らはお祭りと競技とをつかさどっていたのです。で すから、彼らは宗教的な立場からすれば神官でありましたが、一
方、ローマ帝国の業務を実施いたします官吏でもあったのです。ここで、ルカがこのローマの祭儀の代表がパウロの友人で あったと言っており
ますことは重要であると思います。エフェソでのパウロの滞在のことにつき まして説明するにあたりまして、ルカはパウロのローマの官憲の手
により牢獄に入れられたと いうことを省略しまして、パウロの受難のことを無視しているのです。このことは、ルカにと りましては英雄でありまし
たパウロが、ローマの法律を逸脱するようなことはしなくて、キリ スト教の新しい信仰は、ローマ帝国と両立することを示そうとしたものでしょう。
街の書記官 のスピーチがキリスト教のメッセージに対します弁明のように読むことができます。それと同 じように、その祭儀の高官のことを友
人と言っておりますことは、パウロの受けた災難は、パ ウロが友好的なローマの官憲により保護されていることに対して敵意が広まったことの
ために 生じたのだということを示そうとしたものと思われます。
その高官は、パウロにこれ以上の混乱を避けるために、もうエペソの街から立 ち去ったらよいと勧めました。弟子たちにもう一度会いまして、
彼らと抱擁を交わしてから、 彼は海岸沿いの船に乗りまして、新しい宣教の地としてのトロアスにまいりました。そこに、教会ができていたとい
うことは、使徒言行録二十章七節から十二節にでている物語りによって、わかります。しかし、伝道は一ヶ月以上は続かなかったようです。そ
こから、テトスに会うために、ネアポリスに向けて出帆しました。