讃美歌132(めぐみにかがやき)

[ 遺跡

1. 発掘

 エフェソでの最初の発掘調査は、一八六九年のイギリスのゼー・ティー・ウッズ によるものです。劇場で発見された碑文を手がかりとしまし

て、街の入り口にあたりますマグ ネシア門の発見にまず成功いたしました。そこから街路をたどってまいりますならば、いろい ろな神殿が発掘

されることであろうと見当をつけたのですが、実現できませんでした。その後 、ディー・ジー・ホガートがその発掘の事業を引き継ぎました。

 現在も、なお行われていますオーストリア考古学研究所の発掘調査は、一八九五年に、オットー・ベンドルフが始めたものです。最初は、オス

マン帝国のサルタンの許可を えてなされたものです。その後、ケイル、ミルトナー、エイクテル各教授と、一九六九年から 現在までは、ベテル

ス教授を中心にしまして、エフェソの街路、広場、街路の両側の建物などが 発見されました。さらに、ベテルス教授は、裾野の集落を見つけま

した。またケルソスの図書館を修復しました。そこで、聖書と関わりのある遺跡を中心にみてゆくこととします。

2. ルカの墓

  エフェソの街の北東にあるマグネシア門から街に入ります。そこを通ります街路 は、クレテス通りと呼ばれます。そこをさらに進みますと、マ

グネシア門のすぐ傍らの右側に 、多くの女性の像が発見されたことから少女体育館ともよばれます東体育館があります。少し 進みますと、そ

の左側にルカの墓といわれるものがあります。 どうしてルカの墓といわれるようになったかと申しますと、ルカのシンボルである雄牛と十 字架

のレリーフのついています壁の柱があったことによります。けれども、ルカはビティニヤ で亡くなったとされていますし、ヒエロニムスによります

と、コンスタンティノープルに埋葬 されたといっていますから、ここの墓が本当のルカの墓かどうかは分かりません。写真1は、ルカの墓の表示

ですが、最初はアスクレピウスの神殿かなにかで、建てられたものが、後に、東に奥室、西に前室を付け加えることにより、礼拝堂に変えられ

たという説明がなされています。さらに、写真2、3は、立体図と平面図です。写真4は、ルカの墓といわれるものの跡です。

1. ルカの墓の表示

2.ルカの墓1

3.ルカの墓2



4. ルカの墓の跡

3. 劇場

 クレテス通りを北に曲がるところから大理石通りになり、その左側に、ケルソ スの図書館があります。さらに進みますと、劇場にやってきま

す。この劇場は、古代エフェソの すべての建物のうちで最大なものであり、さらに最も印象的なものです。とくにパウロとの関 係では、大きな

関心のもたれるところであることは、すでに申し上げました。劇場は、ピオン 山の西側の険しい傾斜面に建てられておりまして、一番高いところ

からは、エフェソの街の素晴 らしい光景を目にすることができます。アルカディアン通りを下がりますと、古代の港に出ま して海に通じていま。

この劇場はクラウディウス帝のときに拡大され、トラヤヌス帝のとき に完成したものです。

4. 処女マリアの教会

 アルカディアン通りの低くなっています端っこに大きな廃虚があります。それ は、港の浴場と体育館とです。その西北側に、四世紀の初め

に、正方形の中庭とモザイクの敷 かれた玄関のある教会が建てられました。建物の東の部分には、主教の家があり、洗礼槽がそ の中庭に

造られました。その教会は、処女マリアの名前がつけられ、四三一年には第三公会議 がここで開かれました。その会議では、キリスト教にと

りましては教義の上での大変大事なこ とが決定されました。アレクサンドリアのシリルの立場が認められまして、ネストリウスの主 張が否定さ

れまして、処女マリアは神の母となったのです。 写真5 は、その処女マリアの教会の第四世紀の建物の構造です。写真6、7、8 は、その現

在残っている処女マリアの教会の遺跡であり、写真9は、洗礼槽です。

5.処女マリアの教会1

6. 処女マリアの教会2

7.処女マリアの教会3

8. 処女マリアの教会4

9. 洗礼槽

5. パウロの牢獄と洞窟

 リュシマカスによりまして建てられました壁の端に、古代の港を見渡すことの できます正方形の塔があります。その地方の言い伝えによりま

すと、それが使徒パウロの牢獄 であったということです。また街の上の部分の南側のコレッソス山の険しい傾斜面に、一九五 五年に発見され

ました洞窟の教会があります。それはパウロの洞窟の教会と呼ばれています。 この教会は自然の洞窟であり、初代のキリスト教の時代には

礼拝の場所として拡大されたものです。数多くの祈りが壁に走り書きされており、三つの碑文は、使徒パウロに宛てて書かれて います。例を

あげますと、その名前の一部しか分からないある人により書かれました一つの碑 文は、「聖なるパウロ、あなたの僕を助けてください」と読ま

れます。十字架の印のついても う一つの碑文は、テモテへの手紙の個所を思い出させます信仰の闘いをたたかいます十字架の 戦士の言葉

を使っています。このようにしまして、パウロの思い出は、より後の時代のキリス ト教徒の心の支えとして生き続けたのです。