讃美歌135(十字架のもとには)

7. 聖母マリアの家

 ある伝承によると、マリアはエルサレムのシオンの山で亡くなったとされてい ます。その場所には、カトリックのドミティアヌス派の教会があり

まして、そのことを記念し ています。ゲッセマネの園の近くのケデロンの谷のマリアの墓に、彼女の昇天に先立ちまして 、そこに休みに入った

としているのです。この言い伝えは、多くの外典の中に出ています。

 けれども、エフェソにおいて第三公会議が、処女マリアの教会で開かれ、前に述 べましたように、そこでマリアの神の母としての教義が採択

されました。エフェソは、そのとき すでにマリア崇拝の中心地でありましたために、そのステイタスを論議するために、会議がそ こで開かれた

のかも知れません。その教会は明らかに公会議に先立ちましてマリアという名称 をもっておりまた。このエフェソで処女マリアが住んだというこ

とについての言い伝えは、使徒 ヨハネがマリアと一緒に、イエス・キリストの昇天後間もなく、アジアに向けてエルサレムを 後にしたという伝承

によるものです。ヨハネによる福音書十九章二十七節にある「この弟子はイエスの母を自分の家」に引き取ったとあるのは、エフェソにある彼の

家であったとする主張もあります。

  ドイツにおいて、病身の修道女カタリーナ・フォン・エメーリッヒは、十二年 間ベッドについたままでありました。彼女は身に十字架の跡である

スティグマを受けていまし た。ところが彼女は幻しを見たのです。まだ行ったこともないエフェソのマリアの家のことを詳 しく述べました。その幻

しによりますと、その家はエフェソから南に、三時間半の山の上にあり ました。マリアの墓は、その家から約一・五キロのところにあるということ

でした。 

 一八九一年に、スミルナのラザリスト修道院のエム・ポーリンが、エフェソの南 八キロ、アラ・ダーの頂きの北一・五キロのところにある丘の

上のパナヤ・カプラと呼ばれる ところに、廃虚になった家をみつけました。それは、カタリーナ・フォン・エメーリッヒが述 べましたものと全く同じ

ものでありました。その廃虚は、今はマリアの家として知られるよう になったのです。 写真1 はそのマリアの家への標識です。 写真2、3、4、

5 、6はマリアの家です。写真5は、ともに旅行しました仲間たちですが、たまたま、知り合いの神父さんにお目にかかり、一緒に写真を撮った

ものです。また写真7は、黒いマリアの像です。

1. マリアの家への標識

2. マリアの家1

3.マリアの家2

4.マリアの家3

5.マリアの家4

6.マリアの家5

7. マリアの像

 このマリアの住まいについての言い伝えは、キリスト教信仰の敬虔さと献身と が結晶しました珠玉のように美しい物語りです。アルテミス・

ダイアナの像は、博物館の中で の興味の対象にしかなっておりません。けれども、マリアにつきましては、今なお彼女を称え まして、世界の

隅々から人々が集まってきます。