讃美歌298(やすかれわがわがこころよ)

\ マケドニア再訪

1. フィリピへの二回目の訪問

 パウロは、五四年に、マケドニアを再び訪れました。エフェソから、どのような ルートで旅をしたか不明ですが、おそらく前と同じようにトロアス

から船出したのだと思いま す。ここトロアスにおきましては、第一回伝道旅行のときにはしませんでした。けれど も、今度は宣教をしたようで

す。それはコリントの信徒への手紙二  二章十二節の「わたし は、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしの

ために門が開 かれていました」という言葉はそのことを窺わせるものです。教会も出来たのでしょう。 写真1 、2、3、4、5はそのトロアスの街

です。

1.トロアスへ

2. トロアス1

3.トロアス2

4.トロアス3

5.トロアス4

2.テトスとの再会

 ここでテトスがコリントの教会についての知らせを携えてやってくるのをまっ ていましたが、来ませんでした。そこでマケドニアに向けて出発い

たしました。多分、再びネ アポリスに上陸して、フィリピに向かったのでしょう。どこで会ったのかわかりませんが、そこで、やっとテトスと一緒に

なること ができました。

 彼はコリントからの良いニュースをもたらしました。それに対して、パウロは 返事を出しました。そこで、パウロは混乱が起こるかも知れないと

いう恐れをもつことなしに コリントに行くことができるようになったのです。けれども、コリントの人たちに、エルサレ ムの教会のための献金を集

めて、パウロが到着する前にその準備をしておくようにとの要請の 手紙を書きました。それが、コリントの信徒への手紙二の一章から九章まで

を書きました。今度は慎重を期し、時間かけて書いたのです。それをテトスに託しました。

  さて、そこに描かれていますように、パウロは侵入したユダヤ主義者に対して、コリントの人たちのとった態度は、パウロにとり満足のゆくも

のでありました。霊の人とユダヤ主義者の間に、楔をうつことに成功したようでした。中絶していましたエルサレムの教会の貧しい人ちへの献

金の仕事も再開されました。パウロは、数年にわたりおろそかになっていた福音宣教に励むことを願うようになりました。今となっては、コリント

に行くことをそんなに急ぐ必要はありませんでした。そこで、パウロは、西に向けて、エグナティア街道を旅し、イリリコンにまでいたったのです。

3.コリントへの最後の手紙

 しかし、もう安心であると思っていたパウロのところに、コリントでのユダヤ主義者の性懲りもない策動が続いていました。パウロの権威の問

題や旅行計画がたえず変更になつていることや、献金問題に関連して、フィリピの教会からは、献金を受け取っているのに、コリントの信徒の

人たちからの献金を拒否しているといったようなことに対してです。そのようなことを、イリリコンにいるパウロのところにテトスが使者となり、伝

えました。パウロの怒りは、爆発しました。その手紙が、コリントへの信徒の手紙二の十章から十三章までです。彼はいろいろな遠慮や気兼ね

をかなぐりすてて、精神の高まりのままに、自らの主張をぶっつけています。その文章は、迫力があり、高い教育の素質を裏付けるものとなっ

ています。コリントからやってきた使者たちは、その手紙をたずさえてコリントに帰っていきました。パウロは、イリリコンすぐに出て、コリントにゆ

くことはできませんでした。しかし、その手紙への反応を知るために、早く行きたかったものと思います。春になるのを待つわけにはゆきません

でした。そこで、テモテを連れて、コリントにでかけました。

  さて、コリントの人たちはパウロたちをどのように受け入れたのでしょうか。そのことははっきり書いてないのでわかりません。しかし、後に続

く二つのことから、このコリントの信徒への手紙二  十章から十三章の手紙は、大変良い結果をもたらしたものと思います。その一つは、ロー

マの信徒への手紙十五章二十六節には、「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助すること

に喜んで同意したからです」と書いているからです。このようなコリントの人たちの献金に対する態度からみて、パウロと疎遠になったとは到底

考えられません。もう一つは、五四年一月はじめから四月にかけてのコリントでの三ヶ月の滞在の間に、パウロの最も神学的に円熟したローマ

の信徒への手紙を書く余暇があたえられていたということです。

4. ロマ書

 ローマの信徒への手紙第三章第九節には「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」とあります。この罪は一

人の人を通して全世界にきました。律法を守ることを通してはこの罪を克服することはできません。この罪の値は死です。このことは、キリスト

の自己犠牲を通してのみ克服が可能であると。しかしながら、多くのユダヤ人は、キリストを救い主として受け入れなかった。パウロは、このこ

とは異邦人が救われ、そのことを通してユダヤ人も救われることをパウロは確信していました。

5.最後の旅への門出

  さて、ローマの信徒への手紙十五章二十三、二十四節につぎのような言葉があります。「しかし、今は、もうこの地方に働く場所がなく、その

上、何年も前からあなた がたのところに行きたいの切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います」と書いています。このこと

は、パウロにとりましての課題は、ローマ帝国の主要な町々には、 ほぼキリスト教会が形成されていっていまして、西のローマ、スペインに自

らの活動の余地が 残されているものと考えたものと思われるのです。したがって、今後の課題として、西への宣 教を決意したものでしょう。し

かし、そのためにはその前に果たしておかなければならないこ とがございました。それは、エルサレム教会に献金するということです。この献

金問題は、経 済的なことも重要ではありましたが、それ以上の意味がありました。そのことは、何よりもエルサレムで行なわれた使徒会議で

なされました公約でありました。しかしより重要なことは、 異邦人教会の献金を受け取るということによりエルサレムの教会が異邦人伝道を認

めるという ことになりまして、そのことは、ユダヤ人教会と異邦人教会との信仰の一致になるということ でありました。このことに気付いていた

のは、パウロだけでした。だから、彼はエルサレム行 きにすべてを賭けました。

 ここで、わたしたちは当時のローマとの関係での政治情勢を問題にしなければ なりません。献金が受け取られるかどうかということと深い関

係がありました。というのは、 エルサレムの神殿への献金や犠牲は、異邦人も捧げることができましたが、ローマとの関係が 悪くなるにつれ

て、だんだん受け入れられなくなりました。六六年には、頂点に達し、神殿を とりしきっておりましたエルアザルはそのような異邦人の献金や

犠牲を全部拒否しました。パ ウロが献金がエルサレム教会で受け入れられるかについての不安を感じていたのは、そのよう な事情が背後に

あったのです。また、ユダヤ主義的な傾向を強くもっていたヤコブの動向も気 になっていました。

 ところで、この献金をどのようにして運んだのでしょうか。今のように、銀行振り込みというわけにはゆきません。まずその額ですが、どれくら

いであったかは分かりませ んが、それが相当なものであったことは間違いございません。つぎに、その集まった献金を金 に変えることがなさ

れました。武装した護衛をつけて馬で運ぶということも、なされなかった と思います。そんな余裕はなかったはずです。としますと、腹帯にい

れ、それとも首から吊る した紐に袋をつけて、それに入れたものでしょう。それでも、足りなければ、上着に音のしな いように縫いこんだことが

考えられます。

  さて、そこで異邦人教会の代表者を集めまして、エルサレムに行くということ が最も望ましかったわけです。その人たちは七人でした。ベレ

アのソシパテロ、テサロニケの アリスタルコとセクンド、それからデルベのガイオ、二回目のルステラをパウロが訪問してか らついてきました同

伴者のテモテ、アジア州出身のテキコとトロフィモです。

 そこで、三ヶ月後に、パウロはシリアに帰る準備をしました。ケンクレアイから 船出しようとしたときに、ユダヤ人の陰謀に気付きました。そこ

で陸路を通って、マケドニア にまいりました。その陰謀がどのようなものであったか分かりません。彼を海で殺そうとした のか、献金をもってい

るいうことによるものか、個人的な憎悪によるものか、コリントでの何 かの事情によるものか不明です。とにかく、パウロは陸路を旅することに

なりまして、そのた めにエルサレムに行く仲間たちを容易に集めることができるという思わぬハプニングも生じた のです。これは、ルカによって

まとめたものですが、その背後にはもっと重要な理由があるよ うに思います。それは、献金を集める必要はもう無かったようですから、おそらく

は二度と会えなくなるであろうマケドニアの教会の人たちに最後の別れをしたかったのではないでしょう か。