讃美歌226(ちにすめるかみのこら)

9. パタラからテイルス、プトレマイオスへ

 船はロドスをたちまして、パタラの小さな湾に着きました。パタラの遺跡はま だ十分には発掘されておりません。けれども、ほぼその全容は

明らかです。こんなところの方 が遺跡らしくて見応えがあります。ほかにはわたしたち以外に誰もいないのに、若い男女の一 組が楽しそうに、

いろいろ遺跡を見ているのを目にしまして、おそらくは恋人同志が、何がと くに興味があってこんなところに来ているのだろうかと思いました。

わたしたちと同じような 興味があったに違いありません。 まず、パタラの街に入る記念の門が、写真1です。これは、碑文によりますと、紀元1

00年に、戦いの勝利を記念して、ローマの地方総督メティウス・モデスタスにより建てられたものです。したがって、パウロがきたときには、ま

だ、ありませんでした。パウロの船が帰港して、乗り換えました砂に埋もれましたパ タラの港が 写真2、3です。 写真4、5 はパタラの遺跡で

す。それから 写真6、7 は、靴に砂が入り、歩くのに難儀しながらたどりつきましたパタラの劇場です。それから、 写真8 は、ミラとパタラとの

間の海岸線です。

1.記念門

2. パタラの港の跡1

3.パタラの港の跡2

4. パタラの遺跡1

5.パタラの遺跡2

6. 劇場1

7.劇場2

8. ミラとパタラの間の海岸線

  さて、パウロたちはさらに、フェニキアに行く船を見つけまして、それに乗り まして出発しました。風向きがよかったので、海の横断は四十八

時間しかかかりませんでした 。キプロスを通りまして、テイルスの町を目の前にして停泊しました。当時ティルスは、ロー マの自由都市として、

商業のセンターとして、その役割を果たしていました。そこから西に向け、フェニキアのガラスや紫衣が輸出されていました。パウロの乗ってい

た船も、おそらくは 黒海からの小麦粉やギリシアの島のワインを積んでいたものと思われます。 このティルスで、 パウロはキリスト教徒と七

日間を過ごしました。多分、ステファノの殉教をきっかけとしまして 、迫害のために散らされた人々がいまして、その人たちが教会を造ったと思

われます。またパ ウロは、バルナバと共に、使徒言行録十五章三節にあるように、「フェニキアとサマリア地方を通り」アンティオキアから

エルサレの会議に出席する途中において、ティルスのキリ スト教徒を訪ねたことが、過去にあったのでしょう。ここでも預言するものがいまし

て、使徒 にエルサレムに行かないように警告しました。けれども、それを振り切りパウロは出発しまし た。そのときの様子は、ミレトスの場合と

同じでありまして、弟子やその家族の者が、町の門を 通りまして浜辺に一緒にゆき、そこで彼らはひざまずいて、使徒の上に神さまの祝福の

あるこ とを祈りました。

 このテイルスは、現在はレバノンの国に入っています。したがって、イスラエルからは入国できません。予定に入れておりましたが、わたした

ちはここには行くことがで きませんでした。 テイルスから、同じ船か、あるいは海岸沿いに航行します小さな舟に乗りまし て、南へ約二十五

キロのところにあるプトレマイオスに着きました。 写真9、10、11、12 はそのプトレマイオス港です。パウロはそこに上陸しまして、その地方

の兄弟を訪ねました。兄弟たちと丸一日 過ごした後に、使徒たちは約五十キロ南にあるカイサリアに向けて出発いたしました。 ここプ トレマ

イスは、現在そこに行く者にとりましては、十字軍の聖地での最後の保塁としての遺跡 をとどめるに過ぎなくなってしまっています。 写真13、

14 、はその十字軍の保塁です。少しプトレマイオスの街を散策してみましょう。 写真15 は、その街です。 写真16 はアラブの隊商宿の遺跡

であり、 写真17 はその前を歩いている親子づれです。また 写真18 は騎士のホールです。

9.プトレマイス港1

10. プトレマイス港2

11.プトレマイス港3

12.プトレマイス港4

13. 十字軍の要塞 1

14.十字軍の要塞2

15. プトレマイオス

16. 隊商宿

17. 親子連れ

18. 騎士のホール