2. 神殿での逮捕
パウロは、エルサレムの長老たちの支持をえましたが、なおユダヤ人たち、と くに苛立っていたエフェソのシナゴーグからやって来ていたユダ
ヤ人たちにより、反対されてい ました。これらのアジアからのユダヤ人たちが、祭りにエルサレムに来ていました。パウロが 神殿にいるのを見
まして怒りました。エフェソの異邦人であるトロフィモがいるのを見つけまして 、パウロが彼を神殿に連れ込んだと主張しました。これらのエフェ
ソのユダヤ人たちは、エフェソの劇場におきまして、銀細工師の騒動でアレクサンドロに話させようとしましたと同じユダ ヤ人であったかも知れ
ません。 ところで、異邦人は神殿の内部に入ることができませんでした。至聖所を汚す ということでありまして、ユダヤの法律で死罪にあたり
ました。神殿は、低い石の手すりで囲 まれていました。その上には、ギリシア語とラテン語とで、異邦人はそこを越えないように、 もし超えたら
死罪になるという警告の碑文が刻まれていました。これらの碑文が発見され、一 つはエルサレムのロックヘラーに展示されておりまして、もう
一つはイスタンブールの考古学 博物館にあります。
祭壇が汚されたという噂が広まりまして、激しい騒動が持ち上がりました。パ ウロは群衆により捕らえられてしまいました。至聖所の管理人
であるレビ人は、人が殺されて 、そのために祭壇が汚されることのないようにするために、急いで東門を閉めました。その騒 動は、アントニア
に駐屯しておりましたローマの護衛兵がすぐに気付きました。 写真1、2 はアントニアの要塞の跡です。 写真3 は、監視をしておりましたアン
トニアの要塞の窓として後造られたものです。そこで、守備大隊の千人隊長のクラウディウス・リシアに、エルサ レム中が混乱に陥っていると
いう報告をしました。リシアは、部下の数人を神殿の庭に派遣し ました。群衆によって殴られていましたパウロを保護しました。それで使徒は
命拾いをいたし ました。パウロは二本の鎖で縛られました。と申しますのは、リシアはその騒動はエジプト人 の反乱ではないかという疑いをも
っていたからです。そのエジプト人の反乱といいますのは、フェリクスが行政長官をしておりましたときに、エジプト人が乱を起こしまして、四千
人の暗殺 者を荒れ野からオリーブ山にひきつれて行ったことをさしています。使徒言行録二十一章三十四節にあるように、「群衆はあれやこ
れやと叫び立てていた」ために、すぐに尋問することができませんでした。そこで、リシアはパウロを要塞に連れて行ったのです。ところが、要
塞に着く前に、パウロは、千人隊長に話しかけました。それが何とギリシア語でありました。 千人隊長は自分の囚人がギリシア語を話すのを
聞き驚きまして、使徒がエジプト人ではないということが分かりました。彼はパウロがタルソスからやってきたユダヤ人であることを知り、 使徒
の鎖をときまして、人々に話すことを許可したのです。そこで、パウロは神殿からアント ニアの要塞に続きます階段に立ち、人々に、ルカはへブ
ル語で話ししたと書いていますが、多 分、アラム語で演説をしたものと思われます。そこにあるミナレットの北西の隅には、岩に刻 まれました
階段の跡が残っています。アントニア要塞に続きますこの階段は、パウロが神殿の 境内に向かって、ユダヤ人に演説したところであると思わ
れるのです。 ホーリーランドホテルには、ホーリーランドの模型があります。写真4は、その案内のためのホーリーランド模型図です。写真5、6
は、エルサレムの模型であり、写真7、8はエルサレム神殿の模型であり、その場面を説明するためのものです。