3. フェリクス
ユダヤの総督アントニウス・フェリクスは、皇帝クラウディウスより総督に任命 されました。彼は、クラウディウスの母アントニアにより、奴隷か
ら解放された自由民であり ましたので、アントニウス・フェリクスと名付けられました。彼は国を盗賊の恐怖から解放し、 クラウディウス・リシア
が、パウロと同一視しましたエジプト人の狂信者を追い払い、カイサリアでのユダヤ人とエジプト人との間の争いを鎮めたという政治的な手腕を
もっていました。 同時に、残忍な性格の持ち主でもあり、征服欲に駆られていました。自分の総督就任に力を貸 しました祭司のヨナタンの暗
殺に荷担したのです。
パウロがカイサリアにきましてから五日経ちまして、大祭司アナニアと長老と 起訴するための弁護士テルティロとが、総督の前に現れまし
た。テルティロは、総督にラテン語で スピーチをしました。と申しますのは、スピーチの型が典型的なラテン語によるものとなって いるからで
す。初めには、フェリクスに対します称賛の言葉がありまして、つぎにパウロを「世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしているもの」、「ナザ
レ人の分派の主謀者であり」、 「神殿さえも汚そうとする」として非難いたしました。
これに対し、パウロはフェリクスの訴訟の手続きの長年にわたります経験を誉め まして、自分の弁明を始めました。エルサレムに到着してか
ら、何の騒動も起こしていないこ と、律法も預言者の書も放棄したのではないということ、神殿を汚すどころか、神殿で静かに 律法による儀式
を守っていたことを説明しました。さらに、彼は彼に対します非難は、アジア からやってきましたユダヤ人たちによりましてなされたものであるこ
とを指摘したのです。そ れで、フェリクスはその取り扱いについて慎重を期しまして、クラウディウス・リシアがエルサ レムからやってくるまで、
その尋問を延期いたしました。
数日後、フェリクスとその妻ドルシラは、パウロの話を聞くことといたしました 。総督は数年間、カイサリアに住んでいまして、キリスト教信仰
についてある程度のことは知 っていました。パウロはイエス・キリストのことを伝えるチャンスと思ったのでしょう。彼が 「正義や節制や来るべき
裁き」について語ったとき、フェリクスは恐ろしくなりました。といい ますのは、総督の腐敗した行政や気ままな性格を考えますならば、驚くべき
ことではなかった からです。彼は使徒を釈放しようとせずに、賄賂をとることを考えました。フェリクスは、キリ スト教徒は必要な場合には助け
あうことを知っていたからです。使徒を釈放するために仲間の キリスト教徒がお金をもってくることを期待していました。彼はしばしばパウロを呼
び出しま して、話し合いました。けれども、フェリクスの期待はかなえられませんでした。結局、パウロ はフェリクスがその職を解かれるまで、
五四年六月から五六年五月までの二年間、ヘロデの宮殿 の牢に監禁されたままでありました。
まず、写真1 は、カイサリアという街の十字軍の都市としての紹介です。写真2は、ビザンチン・十字軍の要塞の遺跡です。また 写真3 は、
ヘロデ大が造りました円形劇場です。 写真4 、ビザンチン通りであり、写真5は、ハドリアヌス皇帝とゼウス像です。 写真6、7、8 は、カイサリ
アの導水管です。カイサリアの夕陽と海辺などを撮ってみました。それが、写真9、10、11、12です。パウロは二年間もカイサリアに監禁され
ていましたから、このような夕陽を日の暮れる ころにはしばしば見たことと思います。そのとき彼の脳裏に去来することはどんなことであっ たの
でしょうか。ここカイサリアから、写真13のようなポンティオ・ピラトの碑文がでてきました。 ところで、写真14は、カイサリアに到着しましたとき
に、留置されましたヘロデの官邸です。聖書考古学者関谷定夫先生から、お便りをいただきました。それによります と、最近、パウロがカイザ
リアで留置されたいた場所らしき個所が発掘されたというニュース でした。それは円形劇場と戦車競技場の間あたりであるということです。 写
真15 をご覧ください。 図20はカイサリアの地図です。