讃美歌333(主よわれをば)

4. 訪問者フィリポ

 ある日、監禁されていましたパウロのところへ訪問客がありました。それは、 カイサリアの教会を代表しておりましたフィリポでした。前に、パ

ウロがパレスチナに到着した ときに、四人の未婚の娘がいたこのフィリポのところに滞在したことがありました。フィリポは、 パウロに会いまし

て、極端に律法主義的な人たちと、よりリベラルな人たちとを和解させよう としていました。そのために、エルサレムのユダヤ主義の人たちに

手紙を書いてくれないかと 相談をもちかけました。パウロは、フィリポとそれらの人たちとの意見の相違につきまして議論 をしまして、ヘブライ

人への手紙を書いたとするのはおかしいでしょうか。

  ヘブライ人への手紙の著者、それが書かれた場所、その目的といったようなこ とにつきましては、いくつかの説があります。その著者につい

ては、実にさまざまな考えがあ ります。この手紙をパウロのものとは認めない人たちもいます。それに、この手紙は、四世紀 中葉までは、聖

書として認められなかったのです。このヘブライ人への手紙を受け取った人は 、あるいはキリスト教信仰をもってはいましたが、それを後になり

まして棄てたのかも知れません。と申しますのは、ヘブライ人への手紙五章十二節に、「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはず

なのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず」と書かれているからです。さらに、この手紙は一つの教会に宛てて書かれ

たものではなく、教会のあるメンバーに宛てられたものです。なぜかというと、彼らはその十三章二十四節にあるように、「すべての指導者た

ち、またすべての聖なる者」に挨拶するように求められてい るからです。この手紙の著者、その書かれた場所、目的を知ることはできません

が、それでも 、パウロが、カイサリアでエルサレムの教会に宛てて書いたとすることは十分可能です。

5. フェストゥス

 総督ポルキゥス・フェストゥスは、フェリクスの後継者でありまして、五四年の夏に カイサリアに到着したと思われます。このフェストゥスは、

前のフェリクスとは違いまして、尊敬す べき人物であったようです。到着してから三日後に、彼はエルサレムにでかけました。祭司や ユダヤ人

の指導者たちは、パウロが議会でもう一度裁きを受けるように、エルサレムに連れて くることを要求いたしました。けれども、フェストゥスはそれ

を拒絶しました。

 フェストゥスがカイサリアに戻ってきた翌日に、彼は裁判の席につきまして、皇帝 の代理人として、パウロのローマ市民としての権利を擁護し

ました。おそらく、パウロに対し ます告発は、テルティロがフェリクスに対してしたものと同じであったと思われます。フェストゥスは 、多分その

裁判に疲れてしまいまして、妥協しようとしたのでしょう。この事件は、政治的な ものではなくて、宗教的なものであることに気付いていました。

彼はパウロにエルサレムに行 って、議会で弁明するように勧めましたが、それが危険なことであることを知っていましたパ ウロは、「わたしは

皇帝に上訴します」と言いました。フェストゥスは、そのパウロの主張に驚い たと思われるのです。上訴しても、それが認められない場合もあり

ました。山賊や海賊の場合 には、皇帝への上訴がありましても、総督どまりになりました。けれども、パウロの場合は、 疑いもなくローマ市民

でありまして、使徒言行録第二十五章第十二節にあるように、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」ということになったの

です。

 数日後、新しい総督に敬意を表すために、ヘロデ・アグリッパ二世が、その妹 の王妃ベルニケを伴いまして、カイサリアに到着しました。アグ

リッパ二世は、ユダヤの法律 をよく知っていました。と申しますのは、彼は神殿の財宝の責任者でありまして、大祭司を任 命する権限をもって

いたからです。フェストゥスは、彼のアドバイスを求めました。彼は使徒の皇 帝に対する訴えにまでいたっ事件を、王に詳しく話しました。使徒

言行録二十五章十九節にある「死んでしまったイエスとかいうもののことです。このイエスが生きている」といったような信仰の問題ににつきま

しては無知であることをフェストゥス自身が認めているのです。

6. アグリッパの前でのパウロ

 当時、この国はヘロデ・アグリッパ二世により治められていました。その父と 同じように、ローマ人のお気に入りでありましたが、父の王国を

継ぐことはせずに、フィリポと リシアスのみを継ぎまして、後にガリラヤとベレアとが付け加えられました。六〇年代にユダ ヤ人が反乱を起こし

ましたが、ローマによりまして徹底的に鎮圧されてしまいました。アグリ ッパは、反乱を止めようとしましたが、起こってしまいますと、ローマ側

についたのです。彼 は七〇年のエルサレムの破壊を目撃しまして、一世紀の終わりまで生きたのです。

 使徒は、アグリッパ二世とベルニケの前に、引き出されました。まず、フェス トはパウロか皇帝に上訴した経過につき説明しました。それか

ら、王は使徒に話しをさせまし た。それで、パウロはエルサレムで、神殿からアントニアの要塞に通じます階段から語りまし たのと基本的には

変わらない同じ話をしました。もう一度、彼は最初のキリスト教徒に対する 彼の迫害と、ダマスコの道での彼の回心と、異邦人の使徒としての

委託とについて語りました 。使徒言行録第二十六章第二十三節には、「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者 の中から最初に復活

して、民にも異邦人にも光りを語り告げることになると述べたのです」と あります。すると、フェストゥスは、声高に使徒の頭は狂っていると非難

しました。パウロは穏や かにそれを否定しまして、アグリッパに対する彼の話を続けました。彼は、王が自分のメッセ ージを理解するに必要な

バックグランドをもっていることを知っていました。それで、彼はアグリッパ二世に信仰を勧めるという個人的なアッピールをすることをもって話し

を終えました 。閉会となり、王はベルニケや陪席の者に伴われまして退席しました。アグリッパは、告発は 死罪にも、投獄にもあたらないと思

いました。けれども、パウロは上訴しました。ですから、 彼はローマに送られなければならないことになってしまったのです。真に奇妙な形で、

パウロ の念願としていましたローマ行きが実現の第一歩を踏み出すことになったのです。以上が、ル カが使徒言行録におきまして、述べてお

りますローマ行きが決まるまでの経過です。さらに、 ルカの記述は難破の旅へと続きます。