讃美歌495(イエスよこのみを)

V マルタ到着

1. カイサリアを出帆

 ローマ帝国は、その造りました道路により結びあわされておりました。ローマ 人は海を好みませんでした。それに対しまして、ギリシア人に

は船乗りが十分いました。カイ ザリヤを出発するにあたりまして、トロアスのすぐ南にある湾の東端にあるアドラミテオから のギリシアの船に

乗り、出港しました。その船に乗りましたのは、パウロとその二人の仲間で あるルカとテサロニケからやってきましたマケドニア人のアリスタル

コと、それに他の国事囚 たちとでありました。アリスタルコも、パウロと同じく、キリスト教の信仰のために囚人にな ったものと思われます。そ

の他の国事囚たちは、ローマの劇場での競技のためか、それともシ シリーの悪い評判の高かった硫黄の鉱山で労役につかせるかによりまし

て、船に乗せられたの でしょう。何人位であったかはっきりしませんが、ルカは二百七十六人であったとしています 。その位は十分乗れたよう

です。

  難破の旅のコースは、 難破の旅地図 にでています。地中海の航海は、五月二十六日から九月十四日までが安全とされていました。 十一

月十日から三月十日までは、公的には冬の嵐のために閉ざされました。三月十一日から五月二十五日までと、九月十五日から十一月九日

までの二つの期間は、不確実な期間でありまし たので、船乗りたちは外海を航海することを避けたのです。図19を参照。

2. シドンに寄港

 パウロがカイサリアを出たときは、五六年の夏のことでした。十一月に入りま すと、海は冬を迎えまして、閉ざされることになっていましたこと

は、今述べましたとおりで す。カイサリアを出帆した翌日、多分沢山の船荷を積むためか、乗客を乗せるためか、それと も夏の終わりに東地

中海を吹く強い風を避けるためかのいづれかだと思いますが、ティルスの 姉妹都市であるシドンに寄港いたしました。その途中で、パウロが信

仰の兄弟たちを訪ねたこ とのあるプトレマイスとティルスとを通過しています。シドンに向けての短い航海の合間に、 使徒はすでに百人隊長の

ユリアスと親しくなっていましたので、使徒がシドンに上陸して、そ の仲間を訪ねることを許可してくれたのです。シドンで、キリスト教徒の集り

をもち、信仰を 強め、パウロ自身も彼らにより慰められるという機会が与えられました。 

 七世紀この方、シドンはサイダという名前に変わり、よく知られていますが、 そこには、注目すべき建物といたしまして、北の港の入り口の小

さな島の上にある十字軍の要 塞があります。パウロの乗っている船はこの港に停泊しました。このサイダの南東、約六キロ のところに、キリス

ト教徒の巡礼の教会があります。このシドンは、レバノンに属しています ために、現在は敵対関係にあるイスラエルからはもティルス同様に、

直接行くことができない のは、残念です。写真1は、昔のシドンを描いたものです。

図21. 地中海の航海

新教タイムズ「聖書歴史地図」1993 p.172.

1.シドン(ダビッド・ロバート)

Meinardus, Otto F.A."St. Paul's Last Journey,"p.67.より転載