5. ゴルテュナとテトス
良い港から内陸に向けまして、約二十七キロのところに、ゴルテュナがありま す。イラクリオンからラサヤへのバス道に沿ってあるので、途
中で寄ることができます。わた したちの旅行の予定の中にはありませんでしたが、途中にあるので無理にそこに立ち寄ること をお願いしまし
た。そこには、テトスの教会がありまして、わたしたちの行ったちょうど二日 前に、瓦礫の塊りのような崩れかかった建物で、その村の人たちが
集まりまして盛大なミサが 持たれたということです。 写真1、2、3 はゴルテュナのテトスの教会です。また 写真4 はゴルテュナの教会のテト
スであり、写真5は聖母マリアです。二千年の歴史の残酷さと風雪に耐えました姿を目の当たりに いたしまして、感慨ひとしおのものがありま
した。言い伝えによりますと、船がヘヤー・ヘイ ブンに停泊中に、パウロはゴルテュナで説教をしたとしています。それは、不可能な距離ではあ
りませんでした。ゴルテュナは、紀元前六八年に、ローマがクレタを征服しましてからは、 クレタ第一の都市になりました。テトスへの手紙一章
五節によりますと、パウロは弟子のテトスをクレタに残しまして、教会の仕事をさせたとあります。それはパウロの最後の旅であった東部への
旅行のときであったのでしょうか。
6. 良い港出港
さまざまな困難のために、多くの時間が無駄に費やされました。けれども、南 からの軽い風が吹き始めまして、天候が変わったことが分かり
ましたので、船乗りたちは錨を 揚げまして、良い港を出港しました。岸に接近しながら、マタラ岬の周辺を航行しました。皆 、フェニクスまで運
んでくれる南風がそのまま吹いてくれるよう望みました。けれども、風向 きが変わりまして、東北東のエウラキロンという暴風が山の上から吹
いてきまして、船はそれに巻き込まれてしまいました。写真6、7は、ここらあたりからエウラキロンが吹いてきたのではないかと想像される場
所です。
船は上陸用の小舟を船尾に綱でひきながら、良い港の南西四十五キロのクラウ ダの島の近くを航行しました。この島のお陰で風がやや妨
げられまして、舷側に小舟を引き上 げることができました。つぎの仕事は、船が壊れないように船体に綱を巻きつけました。 けれども、一番大
きな危険は、使徒言行録二十七章十七節にあるように、船が「シルティスの浅瀬に乗り上げる」ことでした。その浅瀬は、広い範囲にわた
ります北部 アフリカの砂が、トリポリとキレナイカとの間を航行するのを妨げていました。南の方に流さ れないようにするために、船乗りは帆を
低くしまして、船ができるだけ西向きに走るようにし ました。嵐は衰えることなく続きましたので、つぎの日には、彼らは船を軽くし始めまして、
穀物を海に投げ捨てました。船に綱を巻き付けましたが、それでは役に立たず、漏水が始まり ました。三日目には、船乗りと乗客は、船具を
投げ捨てました。空が曇っておりましたために 、船の位置と方向を決めることができませんでした。何処にいるのか、全然わかりません。だ ん
だん、乗客たちは助かる見込みは全くなく、船は間もなく沈むだろうと思うようになりまし た。乗っている人たちは長い間食事をとっていません
でした。どうしてかわかりませんが、食 事の準備ができなかったのか、それとも船酔いのためかであったのでしょう。
この絶望のときに、パウロは立ち上がり、乗客と船乗りを励ましたのです。使 徒は、主イエス・キリストの導きにより、ローマで宣教できると
確信をしていました。彼らに 良い港を出港しないようにと言った彼の忠告が正しかったことを思い起こさせました。彼は神 さまからの天使のこと
を紹介いたしました。また船は難破しても、誰一人として命を失う者は ないんだと申しました。ルカは、ここで乗客と船乗りのこのパウロの励ま
しの言葉に対する答 えを記録していませんが、船に乗っていました一人一人が、この一人の囚人であるユダヤ人の 言葉によりまして慰めら
れ、励まされたことは間違いありません。