1. ムリェト島
一般には、使徒パウロは、マルタ島に漂着したことになっています。しかしながら、もう一つの無視できない伝承があります。それは、現
在は独立国になっていますクロアチアのドブロヴニクから、約三十キロ、高速艇で一時間ほどのところにありますムリェト島です。この島
は、長さが三十八キロ、幅が三、四キロあり、ダルマチア群島の中の最大の島です。ここには、九百人ほどの人しか住んでいませんが、
その人たちは、ここにパウロがきたという伝承を堅く信じています。家族に何人かの子供が与えられると、その子供に、一人は必ず男子であれば、パウ
ロ、女子であればパウラと命名するということです。何時ごろからかと聞きましたが、ずっと大昔から、そうだと土地の人は言っていまし
た。
2. その根拠
ところで、ムリェト島に使徒パウロが漂着したという根拠として主張されているものを紹介しますと、つぎのようになります。
まず、第一には、アドリア海の範囲の問題です。ルカが使徒言行録二十七章二十七節に、アドリア海がでてきます。これは、当時はその
範囲は、現在イオニア海とアドリア海とを区別して使っているのとほぼ同じ範囲を示すものであったのです。しかし、五世紀、六世紀にお
いては、アドリア海は、非常に広い範囲をさしており、南はアフリカ、西はシチリア、イタリアをさしていました。しかし、現在は、パウロの
時代とほぼ同じく、北緯四十度と四十五度四十五分の間のイタリアとバルカン半島の間をさします。
つぎは、使徒パウロたちがどこで遭難したのかということですが、上述の狭い範囲のアドリア海での遭難の記録は極めて多く残っており
ます。たとえば、歴史家のヨセフスが、パウロの遭難したのと同じ年に、このアドリア海で遭難しております。その自伝の中に、アドリア海
で遭難し、六百人のものが海の放り出され、一晩中泳いだことを書いています。
第三は、毒蛇の件です。パウロが上陸したときに、パウロは毒蛇にからまれましたが、何もなかったことをルカは書いています。そのこと
が島の人たちを驚かせ、島の人たちはパウロを神さまとしたという記事があります。ムリェト島は、毒蛇が沢山いたことで有名でした。このこと
は、パウロの事件と符合しています。そこで、島の人たちは、毒蛇を絶滅するために、マングースを輸入し、現在では毒蛇がほとんどいな
くなったということです。ムリェト島は、沢山マングースの生息するヨーロツパでの唯一の場所になっています。
写真1は、ドブロヴニクに近づいたときに、飛行機から撮ったものです。写真2、3は、ドブロヴニクの街と、その海です。バーナード・シ
ョウがここを訪ねましたときに、「この街は絵画のように美しく、女性は映画のスターのようだ」と言ったということです。写真4は、ムリェト島についたところです。写真5は、パウロ
が、ムリェト島についたときに、その船が遭難したときの珊瑚礁のあるところと島の人たちは信じているところです。漂着したとされる海辺
は、三つの説がありまして、写真6、7、8、9はそれらの漂着した海辺です。
つぎに、わたしたちは、は、古い、四世紀ごろに、ローマの要塞の跡に建てられました聖パウロの教会の跡に参りました。わたし
の足では、なかなか大変でしたが、ガイドさんに手を引っ張ってもらって、写真10,11のような坂道を、三十分近く歩きました。途中、
写真12のようなデイジー、アイリス、シクラメンなどが咲き乱れていました。やっと辿りついた古パウロの教会の跡が、写真13から
20です。島には、沢山の教会がありますが、バビノ・ポルジェにある教会が、写真21、22、23、24、25です。その中の写真22は、
パウロの像です。写真26は、ムリェトを使徒パウロが漂着した島であることを固く信じ、わたしたちを熱心に案内してくださったガイド
さんと、親切にもてなしてくれました民宿の小母さんです。その民宿と食事をとりましたバルコニーからながめたアドリア海が、写真
27、28、29です。