讃美歌87B(めぐみのひかりは)

4. プテオリ上陸

 プテオリは、ポズオリ湾の北の端にありまして、ナポリから十三キロのところ にあります。アウグストゥス、ネロ、ヴェスバシアヌスの治世下

にあって、プテオリはローマ の植民地として存続しました。また、港としての重要性におきまして、ナポリに優っていまし た。その理由は、ロー

マまで行くのに、アッピア街道に近かったことによるものです。この港は、一時は全世界で最大の港であるとまで言われました。エジプトからオ

ベリスクを運んでき ましたのも、この港でありました。プテオリでのツイン・ブラザーズのような船の到着につきまして、セネカはつぎのように書

いています。

  「波止場には、プテオリの野次馬全部が立っており、船がどんなに多くあって も、それに関係なく、その帆の装備によってアレクサンドリアの

船を見つけることが出来る。というのは、他の船は外海に出るときにだけ使うことが出来たのに、アレクサンドリアの船だ けが、港内でも帆をは

ることが出来たからである。」

 そこには有名な円形競技場がありまして、ヴェスパシアヌスにより建てられ、 四万人の観客を収容できました。わたしたちは、その中に入る

余裕がなくその傍らを通りまし て港に向かいました。 写真1 がそれです。またその途中には、 写真2、3、4 のようなローマの神殿跡があり

ます。プテオリに近づくにしたがって、パウロたちは、ブドウの木で覆われ ている西の面のスロープと、ヴェスビオ火山を右舷に目にしました。

その山の麓にある町々が 、その火山の灰の中に埋もれてしまう時が近づいているとは夢にも思わなかったことでしょう 。パウロがカイザリヤの

獄中で、ごく最近会話を交わしましたペリクスの妻ドルシラが、火山 の大爆発という災難にあいまして、その子供たちも一緒に亡くなってしまう

ということを誰が 予想したでしょうか。写真5は、ナポリ国立考古学博物館にあります石膏鋳型による犠牲者です。

1. プテオリの円形劇場

2. ローマの神殿跡1

3.ローマの神殿跡2

4.ローマの神殿跡3

5 石膏鋳型による犠牲者

ナポリ国立考古学博物館所蔵

  使徒たちは、プテオリに上陸しまして、そのユダヤ人の植民地の中をキリスト 教徒を探し出しました。この人たちは、パウロに七日間、そこに

滞在するように求めました。 この人たちのことは明らかではありませんが、多分ペンテコステの最初の日に、信仰が与えら れたローマのキリ

スト教徒たちがプテオリに伝道し、それによりキリスト教徒の集会ができたと思われます。このようにして、パウロたちがキリスト教徒により出迎

えを受けたということ は、キリスト教がすでに広く伝わっていたことを意味しているのではないでしょうか。ですか ら、パレスチナを遠く離れた伝

道も、パウロが傑出してはいますが、決して彼だけのものでは ありません。復活のイエスが多くの人を用いて、パウロと同じような伝道の働き

をさせたので す。パウロがその兄弟たちを訪問している間に、ユリアスはローマの官憲たちに、プテオリ に着いたことを知らせ、その後の処置

につきまして訓令を受け取るまで、その港町に留まりま した。また、ローマのキリスト教徒たちは、ポテオリに使徒たちが着いたという知らせを

受け まして、歓迎のために出かけました。さて、 写真6、7 は、プテオリの港です。この港には、パウロとの関係のあったことを偲ばせるパウロ

の酒屋なるものがあったはずであり、それが、写真8に写っているのですが、わたしは土地の人に問い合わせてもらいましたが、昔はあったが

今はなくなったということでありました。


6.プテオリの港1

7.プテオリの港2

8.聖パウロの酒屋

Meinartdus, Otto F.A.."St. Paul's Last Journey,"p.102.より転載