6.アピフォルム、トレス・タベルネ
さて、使徒言行録によりますと、パウロたちは、まずアピフォルムで、ローマのキリスト教徒たちの歓迎を受けました。使徒はユリウスの尊敬
と信頼を勝ち得ていました 。そうでなければ、囚人がこのように自由に、ローマのキリスト教徒に会えるはずがないからです。彼らは、さらにも
う一度、トレス・タベルネで出迎えを受けました。ところで、現在この二個所に行くためには、ローマからナポリの列車に乗り、 ラティナ駅で下車
して行くのが一番便利なようです。わたしたちは、ラティナ駅のタクシーの 運転手さんをつかまえて、案内をしてもらいました。遠出するよりも、
地元のタクシーを利用 するのが、地理を運転手さんがよく知っていて便利であることは、日本と全く同じです。 写真1 、2、3は、そのラティナ駅
です。
アピフォルムは、同時に、デセノビウム運河の終点でもあります。 写真4、5はその運河の終点です。その場所の状況は、ローマの有名な
紀元前一世紀の詩人ホレイ スによって、言葉巧みに述べられています。その町の状態は、ホレイスの時代から、使徒パウ ロの時代にかけま
して、そんなにひどくは変わらなかったと思われます。パウロがローマから やってきた兄弟たちの挨拶を受けている間に、そこには、舟に乗っ
ている人を下流に移動させようとして、舟を動かしている舟頭の「いやな喋り声」が耳にひびきました。ホレイスが指摘 していますように、宿で
眠ろうとしても、があがあという食用蛙、ぶんぶんいう蚊,酔っ払い の舟頭や通行客の歌のために、それどころではなかったのです。パウロた
ちも眠れなかったこ とと思います。いや、眠れないのは、周囲の喧燥よりも、ローマを間近かにして心はずんだこ とによるものでしょう。
今では、このアピフォルムはボーゴ・ファイティという村の中にあります。そこ が、アピフォルムであるという証拠は、写真6、7 の十九世紀の
税関の建物の壁に書かれている「ポロ・アピア」という印でわかります。写真8、9は、同じくその税関の建物です。また、壁の下の方はローマ
時代のものであ り、敷石もそうです。 写真10、11、12 をご覧ください。いろいろな遺跡の説明をうけながら、物音一つしない荒涼とした場所
にたたずみ、二千年のタイム・トンネルを跳び越 し、そのしじまを破って、かつての喧燥が耳にひびいてきました。 あっ、あそこにパウロたちが
歩いている。
ローマの方向に、アッピア街道に沿って約十九キロのところ、使徒パウロたち は、またローマからのキリスト教徒たちの歓迎を受けました。
使徒は確かにユリウスの十分な 尊敬と信頼とをえていたに違いありません。そうでなければ、こんなに自由に、ローマからの キリスト教徒たち
に会えるはずがないからです。彼の心は、ローマに自分を連れて行ってくれ る友のあることを知って明るいものになっていたことでしょう。そこ
は、今発掘中であり、柵 の中にまで入ることができなかった。けれども、その場所は、写真13、14に示されていま す。ところで、ここには、写
真15が示しているような映画館があります。プテオリのパウロの酒場同様に、今はなくなっているかもしれません。しかし、その名前がその町
に残っているということは、聖書の記事とのつながりのあることを伺わせるものではないでしょうか。
7. ローマ到着
ローマに近づくにつれまして、両側に墓が並んでいる光景が目に入りました。 当時の法律によりまして、都市の内部に埋葬することが許さ
れませんでした。そこで、使徒た ちは、セルウィウスの城壁をくぐり、 写真16、17 のカペナ門を通過しまして、念願のローマに入ったのです。
使徒は夢にまで見ましたこの街を歩きながら、圧倒される思いであったに違い ありません。カペナ門のすぐ外側のところに、彼はローマ人がと
くに好んでいました戦車レー スのために造られましたあの映画ベン・ハーにでてまいります大戦車競技場を、そして右側のパラ ティヌスの丘
の上に、皇帝の宮殿を見ました。 写真18、19、20 はその大戦車競技場跡です。ルカは、パウロが永遠の都に入りましてから、どこへ行った
かにつきましては何も書いていません。多分 、彼は他の囚人たちと同じように、まずローマ広場の北西にあるカピトリヌスの丘の近くにあ る親
衛隊に連れて行かれたか、それとも、ユリウスの属する皇帝直属部隊の駐屯していました カペナ門の東にあるカエリウスの丘に導かれていっ
たと思われるのです。