讃美歌2篇4(この世にあかしをたて)

Xローマでの使徒パウロ


1. ローマ

 古代ローマの位置は、ティベル川の流れます平野にある七つの丘によりまして その場所が決まります。中央イタリアの一番大きなこの川

は、約二十キロの長さがあり、オス ティアで海に流れ込んでいます。図22は、そのローマの地図です。

 ローマは、紀元前一四六年にカルタゴを打ち破ることにより、全世界を制覇い たしました。その支配の範囲は、まず東は、東地中海の周辺

にまで及び、紀元前六三年には、 ポンペイウスによりますエルサレムの攻撃がなされました。北部ヨーロッパは、紀元前五一年 に、ジュリア

ス・シーザーにより征服されました。

 ポンペイウス、ジュリアス・シーザー、クラッサスによりまして、三頭政治が 行われましたが、紀元前四九から四八年までの内戦により、ジュ

リアス・シーザーがポンペイ ウスを破りまして、独裁者となりました。アントニウスはエジプトのプトレマイオス王家の最後の女王クレオパトラと

同盟を結びました。けれども、オクタウィアヌスがジュリアス・シー ザーの後継者として任命されました。紀元前三一年にアクティウムの海戦に

おいて、オクタウ ィアヌスはアントニウスを打ち破り、翌年、アレクサンドリアに兵を進めまして、そこでアン トニウスとクレオパトラは生命を断つ

ことになりました。その結果、オクタウィアヌスが勝利 を占めたのです。元老院は、彼にアウグストゥスという称号を与えまして、アウグストゥス

は 一四年まで最初のローマ皇帝としまして統治に当たりました。その後、一四年から三七年まで がティベリウス、三七年から四一年までがカ

リギュラ、四一年から五四年までがクラウディウ ス、五四年から六八年までがネロという順に皇帝が現れました。パウロがローマに現れました

のは、ネロの治世のときのことです。

  その後のローマをちょっと見てみましょう。 写真1 はコンスタンティヌスの凱旋門です。 写真2 は、フォーロ・ロマーノを展望したものです。

真3は、その中でのヴィーナス神殿の三本の柱です。写真4、5、6は、当時のローマ帝国の心臓部ともいうべき元老院と、その内部です。

真7は、沢山あった神殿の一つであるファウスティーナ神殿です。さて、つぎは、あるいは、パウロもそこに連れていかれたかもしれないカンピド

リの丘をみてみます。写真8は、ミケランジェロが設計しましたコルドナートと呼ばれる階段でありまして、馬の歩幅に合わせて造ったものです。

右、左には、カスターとポラックスの像があります。写真9は、これまたミケランジェロの作品であるマルクス・アウレリウスの像です。写真10

は、双子を育てた狼の像です。

 つぎに、コロセウムに移ります。写真11、12、13、14がそれです。 映画グラディエーターでは、時代考証よろしく、ここでの闘技士のすさま

ずしい演技をみることができます。もちろん、パウロのときには、コロセウムはありませんでした。 

 以下著名な教会のいくつかをみとみます。写真15、16、17 は、ペトロのくさりの教会を撮ったものです。写真18、19、20、21、22は、サ

ンタ・マリア・マジョーレ教会と、その内部です。写真23、24、25、26、27、28は、ラテラーノ聖ヨハネ教会です。

 最後にローマの法王庁をみてみます。 写真29、30、31、32、33 がそれです。写真34は、衛兵さんです。写真35は、ルターの階段のあ

るところとされていますが、さて?

1. コンスタンティヌスの凱旋門

2.フォ-ロ・ロマーノ

3.ヴィ-ナス神殿の柱

4.元老院

5.内部1

6.内部2

7.ファウスティーナ神殿

8.カンピドリオの丘

9.マルクス・アウレリウスの像

10.双子を育てた狼

11 .コロセウム1

12.コロセウム2

13 .コロセウム3

14.コロセウム4

15.ペトロのくさりの教会

16.ミケランジェロのモーセ像

17.聖画

18.サンタ・マリア・マジョーレ教会

19.聖門

20.内部1

21.内部2

22.モザイク

23.ラテラーノ聖ヨハネ教会

24.教会前のジプシーの親子

25.ラテラーノの教会1

26.ラテラーノの教会2

27.ラテラーノの教会3

28.ラテラーノの教会4

29 .法王庁1

30.法王庁2

31.法王庁3

32入り口

33.ピエタ

34 .衛兵

35.ルターの階段

2. ローマでの教会の始まり

 ローマでのキリスト教会の始まりにつきましては、はっきりいたしません。ロ ーマの教会の設立は、ペトロによるとする言い伝えがあります。

けれども、もしもペトロがロ ーマ教会の設立者であるとしますと、パウロの書きましたローマの信徒への手紙の中で、ペテロの牧会への何らか

の言及があって当然ですが、それがありません。その一章五節から十五節までには、異邦人の使徒であることを主張していますパウロは、異

邦人教会であるロー マの教会は、彼の使徒職の管轄の下にあることを仮定しています。ルカは、ペトロが五一年の エルサレム会議に出席し

たことを書いています。そうであれば、その会議の後にローマに出か けまして、そこですでに礼拝していますキリスト教徒の核を見出したものと

思われます。

  また、パウロが設立したとは考えられません。と申しますのは、すでにローマ の教会は、彼が行く前に確立されていたという印象を残してい

るからです。彼はローマの信徒への手紙十五章二十三節におきまして、「何年も前からあなたがたのところに行きたいと 切望していたので」と

書いています。この手紙は、パウロのコリントへの最後の訪問のときの 五四年に書いたものと思われます。

 そこで、ローマの教会はパレスチナで改宗しましたキリスト教徒、多分、使徒 言行録二章十節にある「ローマから来て滞在中のもの、ユダヤ

人もいればユダヤ教への改 宗者」により造られたものと思われます。その人たちは、最初のペンテコステのときにいた人 たちでしょう。コリン

ト、エペソ、アンティオキアを訪問しましたローマの人たちは、ローマ に自分たちと共に、福音を携えて帰ったものでしょう。