讃美歌352(あめなるよろこび)

3. パウロの宣教

 ローマにおける一世紀のユダヤ人社会は、ティベル河をこえた地区のトラス・ タベレにあつまっていました。風刺作家のユベナルによります

と、そこは貧しい人たちの地域 であり、「最低の質の商品の売られている場所」でした。ここは、ローマの最初のキリスト教徒となったユダヤ人

家族の家のあったところです。彼らがそこに澄んだ始まりは、東方での会 戦後、ポンペイウスによって、その都市に拉致されたことによります。

フィロンによりますと、彼らの多くは解放されて、その大部分は、自由人となったと記録に留めています。彼らの社会 は、東方との貿易の関係

があったために、繁栄しました。そして一世紀頃には、多くのローマ のユダヤ人社会は豊かになり、毎年、エルサレムに多額のお金を十分送

ることができるほどに までもなったのです。ときどき、ローマのユダヤ人は、皇帝クラウディウスのときのように、 ローマでの官憲により迫害さ

れました。しかし、その社会は、つねに生存しつづけたのです。 ネロの支配の初期にはその寛大さで知られ、ユダヤ人社会は完全な自由を享

受し、その経済的 な繁栄が増大しました。ローマのキリスト教徒たちは、おそらくユダヤ人たちに差し伸べられ た免除と保護とを享受したもの

と思われます。というのは、そうでなけば、使徒がイタリアに 到着したニュースに対して、こんなに熱狂的に反応することはできなかったであろ

うからです 。 

 使徒は、護衛の兵士の監視づきで、独りで宿舎に滞在することが許されました 。到着しまして三日たち、いつものやり方で、ユダヤ人社会と

そのリーダーとに接触しました 。彼はその地方のシナゴーグに出向くことが許されませんでしたので、自分の借りた家に来て あうように頼み

ました。そこで、ユダヤ人の長老たちはパウロの招きに応えまして、彼の住居に集まりました。使徒は彼らに何故自分が囚人になったかという

ことと、ユダヤの宗教に対し て背くようなことは何もしていないことと、同胞を告発するためではなくて、自らの生命を守 るために皇帝に上訴し

たことを説明しました。ユダヤ人の長老たちの答えは、使徒を安心させ ました。と申しますのは、彼らは、使徒についてのユダヤの兄弟からの

何の言葉も受けとって いなかったからです。彼らはパウロの話を聞きたがっていました。

 それで、改めまして別の日に、ユダヤ人とのもっと大きな会合を開くことにし ました。再び、パウロの宿舎で開かれまして、朝から晩まで続き

ました。パウロは神の国のこ とを語りまして、聞く人たちにイエスはモーセや預言者たちが宣べ伝えましたキリストである ことを確信させようと

しました。ある者は使徒の言うことを信じましたが、ある者は信じませ んでした。そして、会合は激しい議論の後、解散になりました。ユダヤ人

が立ち去ろうとしま したときに、パウロは七十人訳によりますイザヤ書六章九節から十節までを引用して、彼のメッセージを受け入れようとしな

いことに対して、彼らに忠告しました。パウロは、異邦 人に向かって宣教するという彼の意図を強調して、その話を終えました。

  その後、彼はその借りました家に留まりまして、なお監禁されてはいましたが 、彼のところにやってきた人はすべて自由に歓迎することが出

来ました。彼は神の国のことに ついて説きまして、何らの妨害もなく、主イエス・キリストのことを教えました。パウロがコリ ントで、ローマのキリス

ト教徒に宛てて書きましたときに抱いていました夢は、このようにし て実現したのです。そこで、パウロのローマでの勝利に満ちました説教とと

もに、使徒言行録 は終わっています。その結果、わたしたちは、使徒言行録二十八章三十節にある「丸二年間」のローマでのパウロの宣教の

内容につきましては、何も知りません。パウロの伝記という観点から見ますと、使徒言行録のこの最後は、尻切れとんぼになっているとしか言

いようがありません。皇帝への上訴の結果は、何も書かれていません 。けれども、ローマの官憲の立場からすれば、使徒パウロは重大な罪を

犯した被告人ではあり ませんでしした。したがって、恩赦とか、裁判の取り止めといったような偶然の理由により釈 放されたものと思われま

す。そして、ここに書かれています状況で宣教に専念したと思われま す。もっとも、使徒言行録は、パウロの伝記を書こうとしたものではありま

せん。ルカは福音書の下巻と して、キリストの昇天後、聖霊の証しする働きが、使徒ペテロを中心にして、地の 果てにまで至るというものであ

りました。ですから、この結びは極めて適切なものと思います 。 

  ところで、使徒がローマで借りた家というのは、どこにあったのでしょうか。 中世の言い伝えによりますと、ヴィア・ラタにあります聖マリア教

会の位置に、パウロのロー マでの借りた家があったとしています。 写真1 がその表示であり、写真2、3、4、5は、マリア教会とその内部で

す。ローマの悪徳運転手により、探し当てて案内してもらったものの法外な運賃と、おまけに日曜日であったために、サンデー料金までも払わ

されました。昔の地下小礼拝堂には、使徒言行録二十八章十六節の「わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが

自分だけで住むことを許された」というラテン語の言葉があります。

 それから、パウロ門と大戦車競技場との間に、ヴィア・サンタ・プリスカには 、聖プリスカ教会があります。アキラとプリスキラ夫婦が、パウロ

の投獄の際に、ローマに住ん でいたこととして、この教会の地下礼拝堂がパウロが借りた家とします。 写真6、7、8、9 がそれです。 

  もう一つの言い伝えによりますと、ポンテ・ガリバルディの近くの聖パウロ教会がそれだとするのです。 写真10、11がそれです。前者は四

年前の写真ですが、わたしどもが参りましたときには、二回とも中に入ることができませんでした。さて、これらの三つのうち、どれが本当でしょ

うか。

  彼の借りた家ではありませんが、使徒がローマにいたことは、別の初期のキリ スト教の言い伝えにより伝えられています。それは、ヴィア・ア

ーバナにある聖プデンス教会です。それが、写真12 にその表示です。その教会をガイドさんが案内のために、数日かけて調べていただいた

そうですが、わたしの説明が不充分であったので、ガイドさんに迷惑をおかけしまして、叱られているのが、写真13です。その教会は、テモテ

への手紙二  四章二十一節にでてくるプデンスです。その教会は、プデンスとその娘たちが、パウロをはじめ、ロー マのキリスト教徒たちをも

てなした家だと伝承は伝えるのです。その教会が、写真14、15、16です。

1.表示

2. 聖マリア教会 1

3.聖マリア教会2

4.聖マリア教会3

5.聖マリア教会4

6. 聖プリスカ教会

7.内部

8.プリスカの受洗

9.教会内部から入り口

10. 聖パウロ教会 1

11.聖パウロ教会2(4年後)

12.聖プデンス教会表示

13.ガイドさん

14. 聖プデンス教会1

15.聖プデンス教会2

16.内部

4. セネカとの関係

 ここで、ある推定をたててみることにいたします。言い伝えによりますと、使 徒とスペインのストア哲学者セネカと親しい関係のあったことを伝

えています。そのおかげで 、裁判が有利になりまして、無罪放免になりました。それだけではなくて、解放されましてか ら、セネカの頼みで、

スペインに行ったというのです。どうしてセネカと親しくなったかとい いますと、それには二つのことがあります。第一は、パウロがコリントのユダ

ヤ人たちにより 、地方総督のガリオの前に引き立てられましたが、ガリオは問題にしなかったということを、 ルカは使徒言行録十八章十二節

から十七節に書いています。ガリオは、パウロの態度に大 いに感銘いたしまして、それを兄弟であるセネカに伝えたのではないかということで

す。も ちろん、そのことを示すような記事は、聖書には存在しません。

  第二は、西方写本によりますと、百人隊長が囚人をストラトペダークに引き渡 したとなっています。ストラトペダークといいますのは、特殊部

隊の指揮をとります親衛隊の 士官か、それとも、親衛隊の指揮官でありました。後者の方が可能性は高いのです。もしそう とすれば、その指

揮官は、ローマに囚人が到着しましたときには、囚人に対しまして責任があ りました。パウロがローマに到着したときに、親衛隊の指揮官は、

おそらくはアフラニウス・ プラスでありました。プラスは、当時、その政治上の影響を与えることのピークに達していま したセネカのよき友人でし

た。セネカとプラスは、五九年の皇后アグリッパによる皇帝暗殺を しぶしぶ承知しました幇助者であり、ローマの元老院に対してネロについて

説明しましたのは セネカでありました。プラスは、使徒のことにつきまして、セネカに話しをしたに違いありま せん。それで、セネカはパウロと

の交際を求めたものと推察されます。その道徳的に崩れてし まった世界を見まして、彼らはそれぞれの方法で、新しい生き方を見出さなけれ

ばならないこ とを意識していた人たちでありました。したがって、セネカが、パウロの借りた家にやってき た機会があったと考えるのは無理の

ないことです。彼は、ペトロとパウロとが殉教します一年 前に、ネロによりまして死刑に処せられました。