讃美歌370(めさめよわがたま)

Y スペイン旅行

1.その真偽性

 ローマの信徒への手紙十五章二十四節や二十八節にある「イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います」と「あなたがたのところを経てイスパ

ニアに行きます」とい うパウロの意図が、達成されたかどうかにつきましては、分かりません。けれども、使徒言行録二十八章三十節に指摘さ

れています「丸二年間」の後に、パウロがどうしたかにつきま しては、三つの初代キリスト教の文献が発見されています。まず第一に、ローマ

のクレメンス は、コリントの人たちへの手紙の中でつぎのように書いています。「聖パウロは、七回鎖に繋がれ、追放され、石を投げつけられ

た。そして、東でも西でも宣教につとめ、彼の信仰の報いである尊い名声を得、全世界に正義を教え、西の最 も遠い辺境にまで足を運んだ」こ

こで、「最も遠い辺境というのは、スペインを意味いたします。

 第二の証拠は、二世紀後半に書かれましたペテロ行伝の初めの三つの章に、パ ウロがスペインに向けてオスティア港を出港したときの詳

細な記事がでています。

  第三の文献は、ムラトリ・キャノンです。これは、最初はギリシア語で書かれ ていましたが、後にラテン語に翻訳されました。そこでは、使徒

の行動につきまして、つぎの ように言っています。「ルカは、大変優れていたテオピロに、自分の目の前でなされたいくつ かのことを簡潔にま

とめている。彼は明らかに、ペトロの情熱や、パウロのその街からのスペ インへの旅の出発を省いている。」

 それでは、パウロはどうしてスペインにまで、福音を伝えなければならないと いう使命感をもったのでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙第一

章十五節に「わたしを母の 胎内にあるときから、選び分け、恵みによって召し出してくださった神」とあります。これは 、イザヤ書四十九節の言

葉の引用です。ということは、パウロはイザヤと同じ使命を自らに 課していたのだと思います。イザヤ書四十九章六節には、「わたしの救いを

地の果てまで 、もたらす者とする」という言葉があります。パウロの時代の地の果てとは、まさしくスペイ ンであったのです。二世紀の中葉まで

は、キリスト教徒は使徒パウロのスペインへの宣教は、実際 に実現したと信じていました。

2.スペインへの旅

 パウロは、二年間の監禁を解かれて、自由の身になりました。かねてから計画 していましたスペインへの宣教に、五九年頃のこと出発する

ことになりました。彼はローマか らオスティエンシス街道に沿いまして、オスティアに旅をしました。オスティアは、五四年に クラウディウスによ

りまして着工され、ネロにより完成されましたローマ帝国の新しい港であ りました。そこから、定期船がカディスとタラコ、それは現在のタラゴナ

ですが、そこに向けて出港していました。タラコまで四日かかりました。外典のペテロ行伝三章には、使徒パウ ロのオスティア港からの出発

を、つぎのように生き生きと書いています。

  「多くの婦人が、ひざまずいて祈り、パウロに懇願した。それから、彼の足に 接吻し、港へと見送った。アジア出身のローマ騎兵で、名の知

られた人であったデオヌシオと バルブスもいた。また、デメトリオスという元老院議員は、パウロの右手を取って放そうとも せず、『パウロ、もし

わたしが、官職にあるのでなかったならば、あなたから離れることのな いように、あなたと一緒に街から逃げ出すのですが』と言った。シーザー

家の者であるクレオ ビウス、イフィトウス、そしてフィロストラトゥスも、長老ナルキッソスと一緒に、港まで見 送ってきた。しかし、海は嵐がきそ

うになっていたので、彼、ナルキッソスは、希望する者が彼の船出までずっと彼の話を聞くことが出来るようにと、兄弟たちを、いったんローマに

送り 帰した。そのことを聞いて、兄弟たちは街に上って行った。そして、街に留まっていた兄弟た ちにそのことを告げると、ある者は家畜に乗

り、ある者は徒歩で、ある者はティベル川を舟で 下って、港にやって来た。パウロの話を聞き、それは四日目の第五時までも続いた。彼らの信

仰が強められた。彼らはパウロと共に祈り、献げ物を捧げ、船で必要な物をすべて積み込み、 パウロと共に旅をする二人の忠実な若者を付

け、主の御名によって別れを告げ、ローマに帰っ た。」

  このオスティアは、ローマからティベル川を下って、約三十二キロのところにあります。海賊を防ぐために、河口を守る軍事上の植民地とし

て、紀元前四世紀ころに造られたものです。その後、数世紀にわたりローマに入ってくる船荷の荷揚げの港として繁栄しました。紀元二世紀の

ころには人口は、十万人を超えましたが、現在は廃虚と化しています。

  このオスティアについて、少しみてみましょう。写真1は、このオスティアの入り口です。写真2は、真中に石臼がありますが、粉屋さんです。

写真3は、酒屋です。写真4は、神殿です。写真5、6は、当時のどこのでもみられる公衆便所と浴場です。写真7は、遺跡です。

1.入り口

2.粉屋

3.酒屋

4.神殿

5.公衆便所

6.浴場


7.遺跡