Z東部への旅行
1. エーゲ海再訪
パウロは五七年にローマに到着して、丸二年間住んでから、釈放されて、念願 のスペインに行きました。しかし、そこでの伝道は何もふれら
れていないことから、始めに伝道したアラビアのナバテア王国と同じく、失敗であったようです。そこで使徒は、失意の うちにローマに帰ってき
ましたが、積極的に支援してくれなかったローマの教会の人たちに会 うことをさけたものと思います。オスティアの港に上陸してから、南の方を
めざしてアッピア 街道をブルンディシまで行きました。そこから、アドリア海を横断し、エグナティア街道のターミナルであるデュルハキウムに
着きました。ブルンデイスィムは、アッピア街道のタ ーミナルです。そこにはくずれかかった柱が二本残っております。町のシンボルとして、大
事 に保護されるもののようです。そこに行って始めて知ったのです が、このブルンディシは、ヴァージルが熱病にかかり死んだところです。そ
のアッピア街道の終点に、ヴァージルの階段と名付けられたものがございました。こんなところで、ダンテ の先生にあうことは、予想もしていま
せんでした。わたしたちは、もちろん、アッピア街道を歩いたわけではなく、ローマから飛行機で、ブリンディシに着きました。写真1、2は、その
ときの空港の写真です。すぐに、タクシーに乗りまして、案内をしてもらいました。写真3、4、5、6は、そのターミナルを撮ったものです。それか
ら、ヴァージルの階段が、写真7,8、9は、その階段の表示と 階段です。綺麗教会があり、ちょうど、結婚式の行われた直後でありましたので
入ってみました。それが、写真10,11、12,13です。ここブリンディシは、難民が船で上陸するかっこうの港になっているらしく、わたしたちの
行ったころは、毎日のように新聞紙上をにぎわす事件が起こっていたそうです。写真14は、その港です。
パウロはアドリア海を渡り、デュルハキウムに着き、その地域のイリリコンでの宣教にあたりました。どうして、こんなとこ ろに使命を感じたか
といいますと、パウロはコリントの信徒への手紙二 十章から十三章にでているようなコリントの教会の危機のために、そこでの宣教を中断
してコリントに行かなけ ればならないことがあったからです。そこで、このイリリコンで約一年間滞在しました。その後 、コリントにはもう寄らず
に、テサロニケ、フィリピを経由して、おきまりのコースであるエー ゲ海を渡り、トロアスに着きました。ところが、トロアスでは、外套と書物を多
分、年を取っ たパウロにはそれらは重かったのでしょう、後でローマからのテモテへの手紙で、それらをも ってきてくれるようにと、テモテに依
頼しております。このことは、テモテへの手紙二 四章十三節にでております。
さて、パウロはトロアスから、あの親しい仲間のアキラとプリスキラ夫婦いる エフェソに到着しました。ここエフェソでもいろいろな問題がありま
した。そのことは、テモテに あてて書いた手紙から察することができます。パウロは、エフェソにどれくらい滞在したか分かりません。しかし、彼
自らによっては、状態がよくならないことを知って、後をアキラとプリ スキラ夫婦に任せて、ミレトスに向かってエフェソを去るのです。そこからミ
レトを経て、あるいはクレタにも寄り、コリントにいったものと思われます。さらにニコポリスにゆきます。ここ らあたりから、事態は一変します。
2.ローマへの帰還
ローマの信徒への手紙一章七節に「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同」にその宣教を続けるために、ローマに
帰ってきました。というよりも、もっ と差し迫った事情があったものと思います。当時は、ローマに大火があり、ネロ皇帝 の支配下で、キリスト教
徒迫害の風評がたちました。それは六五年の秋ころまでには、パウロ のところに届きました。そこで、ローマのキリスト教徒を励ますために、
急遽帰ってきたので しょう。ローマに帰ってきた当初は、オネシフォロがわざわざ訪ねてきてくれていますから、そんなに厳しい状況ではなかっ
たと思います。しかし、ローマの教会の人たちからは見放されて いたといってよいと思います。この獄中で、テモテへの手紙二四章六節から八
節にあるように、パウロは、長い自らの生涯を省み、その生涯の終わりが近づいたことを書きしるして います。けれども、さらに宣教についての
可能性を探ってもいました。しかし、状況はそのよ うなことが許されなくなりまして、仲間のキリスト教徒を励ましながら,自らも殉教すること に
なります。ここでの東部への旅行の想像図は、 図23のようになります。