讃美歌338(主よおわりまで)

[ 殉教

1. 投獄

 最も古いパウロの殉教につきましての証拠は、九六年にローマからコリントの 人たちに書かれました聖クレメンスの手紙です。この手紙に書

かれています迫害は、明らかに ネロのそれを指しています。またエウセビオスは、六七年、すなわちネロの治世一三年目の第 二回目のロー

マヘの訪問をして、殉教したことをつぎのように述べています。「このようにし て、ネロは公的に神の主要な敵として自らを宣言し、荒れ狂って

使徒たちを殺戮した。そこで 、パウロはローマで打ち首になり、ペトロは彼に従い十字架にかけられた。そして、この説明 は、ペトロとパウロと

いう名前が、今なおその街の墓地に残っているという事実によって確か めることができるのである。」

 使徒の最後については、二世紀の外典パウロ行伝に詳しく出ています。それに よりますと、三つのエピソードが

書かれています。それらは、宣教の業のために家を借りたこ とと、パトクラスを生き返らせたことと、このことは、ト

ロアスでエウティコを生き返らせた話に 明らかに対応しているのですが、それと皇帝の前にパウロが現れたこととです。

このことは、マルコによる福音書十三章九節の「わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすること

になる」という預言の成就であると言われています。

1. クォ・ウァディス教会

2.マメティーノ牢獄の表示

3.牢獄からフォーロ・ロマーノを見下ろす

4. ペトロとパウロの像

5.牢獄1

6.牢獄2

7.牢獄3

8.牢獄4

 写真1 はアッピア街道のローマに入ります手前にあるクォウァディス教会です。その ような次第で、使徒は六四年のローマの大火災の後

に、贅沢の限りを尽くしまして ネロが建てましたゴールデン・ハウスに連れていかれ、ネロの前に引きづり出されたのです。 このネロの宮殿の

園にありました人工の池に、皇帝ヴェスパシアヌスがコロセウムを建造し たのですから、どんなに巨大なものであったかが分かります。その

後、マメルティーノ牢獄に 繋がれました。この牢獄は、カンビドリオの丘の麓にある国事犯の牢獄としてよく知られたも のです。圧倒的な暗

黒、厭なにおい、どんな人でも感覚を狂わせるという凄まじいものであり ました。 写真2 はそのマメルティーノの牢獄の表示であり、 写真3

は、カンビドリオの丘のマルメティーノの牢獄の上から、フォーロ・ロマーノを見下ろしたものです。写真4は、牢内にあるペトロとパウロの像で

す。写真5,6、7、8は、牢獄の内部です。