2. 凱旋
この二回目の投獄の間に、パウロは、あるいはテモテへの手紙二の一部を認めたものと思われます。その手紙によりますと、彼の同伴者は
ルカだけでありました。デ マスはこの世を愛しまして、彼を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。クレセンスはガ ラテヤに行き、テトスは
ダルマティアに行きました。けれども、アジアからやってきました彼 の友人の一人であるオネシフォロは、危険をものともせず、恥をおそれるこ
となく、テモテへの手紙二 一章十六節から第十七節にあるように、「熱心にわたしを探し、見つけてくれた」のです。この投獄は、彼の前の投
獄よりは、明らかに厳しいものでありました。テモテへの手紙二四章十六節にあるように、彼の友人の誰も、法廷で彼を弁護してはくれません
でした。このときのパウロに対してなされました嫌疑の内容につきましては分かりません。け れども、多分、彼はローマ市民の間に、禁じられ
ている新しい宗教を広めたということで告発 されたものでしょう。彼はまた、放火し、その街を焼くという全く身に覚えのない嫌疑のため に訴え
られたのかも知れません。そのような嫌疑に対しまして、テモテへの手紙二 四章十四章から分かりますように、銅細工師のアレクサンドロ
は、その告発人、あるいは少なくと も、彼に対しましてそのことを証言しました一人であったのではないでしょうか。
最後に、パウロは現在、トレ・フォンタネ、これは三つの泉ということですが 、そのことで知られています 写真1のパウロ門から五キロの里程
標のあるところで殉教しました。言い伝えによりますと、使徒の首が肉体から切り離されましたとき、なだらかな勾配 を転がってゆきまして、三
回は跳ね上がったということです。そのところに不思議なことに、 泉が噴き出しました。そこに、現在トレ・フォンタネ教会があります。 写真2
は、その教会の前です。写真3は、その表示です。写真4は、トレ・フォンタネ教会です。写真5も、そこにあるもう一つの教会です。写真4の
内部のトレ・フォンタネが、写真6、7、8です。また、写真9は、パウロがくくりつけられていた柱とか。写真10は、カラバッジョのパウロ殉教の
迫力のある絵です。写真11、12は、壁画と床のモザイクです。このようにして、使徒パウロは、六七年 に、走るべき道程を走り尽くし、文字ど
おり波瀾万丈の生涯を終えました。逆十字架に張り付 けられて最後を遂げましたペトロの後を追って、主の御もとに見事に凱旋しました。写真
13 は、その教会にあるペトロ殉教のレリーフであり、逆さまになりまして十字架にかかってい ます。写真14は、パウロ殉教のレリレーフであ
り、そこでは斬首の状況が描かれています。 さらに、写真15,16、17 は、パウロ城外教会です。そこにはパウロの像が立っています。 その
教会の中には、いろいろなものがパウロを記念して飾られています。多分、パウロは、こんな筈ではなかったと面食らっているのではないかと
思います。写真18は、その入り口です。写真19は、パウロ、写真20、21は、墓とパウロがくくりつけられていたくさりと言われるものです。写
真22は、直接、パウロには関係あるませんが、イースターの燭台です。写真23は、その教会の中庭です。
最後に、パウロの書きましたローマの信徒への手紙八章三十八節から三十九節までを引用して結びとします。「わたしは確信しています。
死も、命も、天使も、支配するものも、現在のもの も、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな 被
造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き 離すことはできないのです。」 (ローマの信徒への手
紙八章三十八節−三十九節)