蟠蛇森  2002年6月23日

「蛇(へび)」が「蟠(わだかまる)」、つまり「蛇がとぐろを巻く森」とはなんともおぞましい山名だが、これは蟠蛇森の山腹に大蛇が住んでいたという言い伝えからきたといわれる。しかし須崎湾県立自然公園の一角である蟠蛇森は自然公園として整備され、たくさんの人々に親しまれておりそんな恐ろしい雰囲気は微塵も感じられない。

現在蟠蛇森山頂付近へは須崎市桑田山地区から車道が延びており、登山の対象としては少し忘れ去られかけているが、なにもこの山の魅力は山頂だけではない。いくつかある登山道を歩いて蟠蛇森の自然に四方八方から触れてみるのもきっと楽しいに違いない。
そう思って地図を広げて、今回は山頂の北西にある朽木峠から尾根伝いに蟠蛇森をめざすことにした。
今回の山行きメンバーは3名。全員一度ならず蟠蛇森山頂を踏んでいるのだが今回のコースは初めてとあって子供のように落ち着かない。
それでもハンドルは慎重に握って、まずは、国道33号線を佐川町中心部から国道494号線に乗り入れ、JR斗賀野駅を過ぎて間もなく狩場から斗賀野トンネルの上部に出て佐川町川ノ内の集落をめざす。(あるいは、斗賀野トンネルを南に抜けてから右折して旧道に入り川ノ内集落をめざしても良い。)
旧道から川ノ内集落への入り口には「維新へ脱藩の道、葉山街道」の案内板が立てられている。
朽木峠へは葉山村三間ノ川(みまのかわ)からも登ることができるが、今回は佐川町川ノ内から辿ることにした。なぜ川ノ内からかと聞かれれば特に理由は無いが、強いて言うなら「脱藩の道」を「坂本龍馬」と同じ向きで歩いてみたかった、ただそれだけのことなのである。

さて、川ノ内の集落に入ると幅員の狭い車道を奥まで詰めて、行き止まりから歩くことになるのだがマイカーの駐車には正直難儀する。今回は車道終点より徒歩3分ほど手前の待避所を利用させていただきマイカーを駐車した。


車道終点の登山口から歩く。左奥に見える尾根の最低コルが朽木峠あたり。手前右手には民家がある。

車道終点には一軒の民家があり、登山口はその民家への上がり口にある。登山口からしばらくは舗装された歩道を歩くことになる。
田舎の風景を楽しみながら田んぼの上側を歩いてゆくと左手上方にはめざす蟠蛇森の山頂とその近くに立つパラボラアンテナが見えている。


登山道から左手奥に蟠蛇森を見上げる。眺める尾根筋はそのほとんどが植林におおわれている。

足元にウツボグサやキツネノボタンなどが咲く中、広い登山道を進んでゆくと、登山口から7分ほどで道は植林の中に吸い込まれてゆく。
植林の入り口には小さな谷があり清らかな流れが小さな音を立てて涼しさを演出している。
植林の中に入ってからも幅2m余りある広い登山道が続いている。
この朽木峠越えの往還は、弘化元年(1844年)に土佐藩主山内豊熙(やまのうちとよてる)が津野山郷方面を視察する際にも利用しており、さすが藩主が通っただけあってさほど急な所も危なげな所もなく快適な道が続く。
(余談だが「皆山集」によれば、山内豊熙が朽木峠を越えた際には「道は険しくて、ようやく峠を越えると強風に襲われ這うようにして三間ノ川(みまのかわ)に辿り着いたという」ことであるから、こんな快適な道も悪天には難儀するかも知れない。)

小谷から5分足らずで登山道は分岐に出会う。
左に下る方へは「KCC朽木山荘入口」とあり、「無断立ち入り禁止」になっている。ここは右へと植林の中を歩いてゆく。
やがて右手に小さな地蔵と出会う。よく見ると「48番十一面観音」と刻まれてあり、どうやらミニお四国のひとつらしい。


朽木山荘との分岐点。右に向かうと間もなく十一面観音と出会う。

さて、十一面観音から10分ほど、マツ混じりの照葉樹林や植林を縫って、ガレた登山道の右手に竹林が見えてくると尾根に出て峠に着く。
ここが龍馬脱藩の道として有名な朽木峠越えで、現在の峠には関所を模した門などがある。
ここでは葉山村などの主催で龍馬脱藩の道としての様々なイベント(「葉山村龍馬を愛する会」の主催による「脱藩の道ウォーキング」など)が行われており、その名残だろうか竹林の中には茶店らしき建物も見える。
もっとも、往時には実際に峠の茶屋があったといわれる。


朽木峠には関所を模したゲートが立ち、葉山藩の文字には愛嬌を感じる。

一角には手作りの展望台(櫓)があり、竹と木で組まれた階段を上ると葉山村の集落を見下ろし、遠くには鶴松森を華とする半山北山の尾根が、更にその肩越しに鳥形山や不入山や天狗高原など津野山の山々を遠望することができる。


展望台の上から葉山村の集落を眺める。遠くには鶴松森などのやまなみの向こうに鳥形山などがのぞく。

また、峠から葉山村側に数歩の所には馬頭観音が奉られており、そこには実際の馬の姿が彫られてあるのが珍しい。
馬頭観音はふつう馬の顔を頭上にいただく観世音菩薩であり、実際に馬自体が描かれているのは非常に珍しいのだが、これもこの峠をかつて斗賀野瓦などを背にたくさんの馬が越えていた名残なのであろう。ちなみに馬といえば戦前の葉山村は馬の産地としても有名であり、「半山駒」と呼ばれた有数の良馬は広く知られていた。


朽木峠の葉山村側にある馬頭観音。

ところで、現在葉山村や東津野村方面から高知市に向かおうとすれば蟠蛇森を大きく南に迂回して須崎市を経由するのだが、かつては朽木峠越えがお城下に向かう最短コースであった。
従って、この朽木峠を越えていたのはなにも馬や近隣の庶民たちだけではなかった。南北朝時代には五山文学の双璧といわれた義堂周信(ぎどうしゅうしん)
(*1)と絶海中津(ぜっかいちゅうしん)(*2)の二人の高僧もここを越えている。
あるいは、葉山村出身の大蔵大臣、片岡直温(かたおかなおはる)
(*3)も青雲を抱いてこの峠を越えていったのだった。
そして忘れてならないのは文久2年(1862年)3月24日、坂本龍馬と沢村惣之丞は川ノ内の集落からこの朽木峠を越えて三間ノ川から姫野々へと駆け抜けたのである。
時に坂本龍馬28歳、日本を今一度洗濯しようと考えて脱藩を決行したその日のことだった。
あれから150年、日本は大きな変化をとげ、賑やかだった朽木峠も今では僅かな里人と物好きな登山者が訪れる程度で脱藩の道朽木峠はその役目を終えまさしく朽ちかけていた。

(*1)義堂周信(1325-1388)=正中2年東津野村生まれ(葉山村生まれともいわれている)。五台山吸江庵(ぎゅうこうあん)に住んでのち、足利義満に請われ建仁寺に入り、のち南禅寺に入る。禅僧がその本分を忘れ詩文などに熱中することを戒めたが、自らも詩文にたけ絶海中津と並んで五山文学の双璧と称された。『空華集』『空華日用工夫集』『東山和尚外集抄』などを著す。
(*2)絶海中津(1336-1405)=建武3年東津野村生まれ。義堂と同じく吸江庵の祖「夢窓疎石(むそうそせき)」に師事し、のちに明に渡り書道・詩文などを学び名声を博し、帰国後足利義満に重んじられ相国寺に住む。吸江庵の再興に尽力した他、板野郡土成町の奉還寺を開山するなど活躍。『蕉堅稿』『絶海録』『四海語録』などの著がある。
(*3)片岡直温(1859-1934)=安政6年、葉山村に生まれる。小学校教諭から郡役所を経て伊藤博文に引き立てられ、日本生命創立、関西鉄道社長などを経てのち商工・大蔵大臣を務める。ちなみに、坂本龍馬の朽木越えを案内したのは直温の父「片岡孫五郎」だといわれる。

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