堂ケ森  2003年9月、2003年11月

村の中心部を清流四万十川が縦断する西土佐村は自然豊かなところである。西の黒尊渓谷もそうだが、東の堂ケ森も豊かな森に恵まれている。藤ノ川の集落を後に、中村市へ抜ける山間(やまあい)の林道を走っていたら、イノシシの親子やニホンジカのカップルに出会った。特にシカは二度の山行き中二度とも車道に現れたし、また一度は登山道の曲がり角で不意に鉢合わせしてお互いに腰が抜けるほど驚いたこともある。その時のオスジカは立派な角が立木に当たるのも構わず一目散に逃げ出したものである。あの時にシカの角が木々を打つ「かんかん」という澄んだ音は今も覚えている。

最初の堂ケ森行きは彼女と二人だけの静かな山歩きだった。
藤ノ川の集落から未舗装の林道をかれこれ半時間も走った頃、尾根にパラボラアンテナが現れた。ここで車道は三叉路になり、尾根を越えると中村市に下る。ここは桧尾越えの峠である。二度目の堂ケ森登山はここから歩いたのだが、最初は車道終点の登山口まで自家用車で駆け抜けた。三叉路を直進し、尾根の西側を堂ケ森方向に向けてほぼ水平に走ると右上に「NTTドコモ堂ケ森無線中継所」の電波塔が見えてきて、立派な案内板が立つ登山口に着く。桧尾越えから、歩いても15分足らず、車なら5分ほどの道程である。


車道終点の広場から山道に入る。

登山口は辺り一面のススキ野原が美しく、西方向の眺めが素晴らしい。歩き始める前にウォーミングアップしながら眺めてみる。南予アルプスという呼び名にふさわしく、鬼ケ城山系ではいくつもの名峰が背比べをしていた。淹れたてのコーヒーでもすすりながら眺めていたいような景色だが、それは帰りにしようと彼女をなだめてからようやく歩きだした。

アザミに訪花するナミアゲハや交尾に勤しむウラギンヒョウモンを見やりながら、広い登山道を少し登って林に入るとすぐに道はなだらかになる。道の両側にはいくつもの樹名板が見える。エゴノキやホソバタブ、アカガシやネズミモチ、ウリハダカエデ、ウラジロガシ、ハイノキなどなど。眺めてはその木の特徴を探すのも楽しい。そんな林を行くと落ち葉に秋の木漏れ日が心地よい。


堂ケ森風景林の中に整備された登山道をゆく。

アカガシの大木やモミの立つ坂道を登ると、枝振りの面白いモチノキがある辺りからなだらかなヤセ尾根になる。見渡す疎林は美しく、展望はなくても明るい雰囲気の林が続いている。堂ケ森風景林だけあって、さすが樹種豊富な林である。アオハダやミズキ、ヌルデやヤブムラサキ、シロダモ、ハマクサギ、イタヤカエデやリョウブ、ユズリハなど、樹名板を読みながらのんびりと歩いてみる。足もとには赤く実を熟らそうとしているツルシキミも見える。
小さなコブを巻き込み、アカガシの大木を眺めながら少し登ると右前方に木々の間からめざす頂が見えてきた。振り返ると後方には四万十を潤す山々が覗く。シカの求愛の鳴き声を聞きながら歩いて行くと、やがて「中間点」と書かれた道標が見えてきた。ここまであまりにも楽しい林歩きだったので、あっという間だった。なんだかもったいない気がして少しだけ歩を緩めながら、坂を登ると尾根の右手をトラバースしてゆく。


中間点を通過して、さらに山頂をめざす。

まもなく林の隙間から南に眺望が開けると、内川川に沿って太平洋へ雪崩れ込むような緑のやまなみに心が洗われる。歩いてきた方を振り返ると、登山口の上に建っていたアンテナが少しだけ遠のいて見える。この登山道で出会うことのできるわずかな景色を楽しんだら、風倒根の脇を通り「あと500m」の標柱を通過する。辺り一面深緑の林では赤い木肌のヒメシャラがよく目立つ。そういえば西土佐村の村木として指定されているのはヒメシャラだった。静かな林は照葉樹の葉が陽射しを遮り夏でも涼しい。ひんやりとした冷気の漂う林の中、100mごとに打たれた標柱を辿りながらなだらかにゆく。梨のように甘いケンポナシや芳しい山椒の実などを眺めながら小さなコブを越えて少し下ると、やがて「あと150m」の看板から緩やかな登り坂になり、行く手にお堂の屋根が見えてくると山頂はもうすぐそこである。


堂ケ森山頂には山名の由来ともなった地蔵堂があり、背後には杉やアカガシの大木が立っている。

無線ロボット雨量計の施設脇を通り抜けてたどり着いた頂は広々としており、中ほどには1992年5月に改築された「堂ケ森地蔵堂」が静かに建っている。そばには明治9年奉献の手水鉢も見える。このお堂は中村に下向した一条教房公が蕨岡を経て上山郷への街道を整備した際に、足摺の金剛福寺から地蔵を一体拝受して、文明年間(文明7年3月24日)に道中安全や五穀豊穣を祈願して建てられたものといわれる。
現在お堂の中には3体の地蔵が奉られており、そのうち中央のものがその時に祀られた地蔵といわれ、別名「背負い地蔵」とも呼ばれる。明治時代、この山中に炭焼きに来ていた小坂庄九郎という男が、病気を治してくれたらお前を背負ってお四国(四国霊場八十八カ所)を巡るといって願を掛けたところ、病気が治ったので、願を解くために約束通り地蔵を背負って巡礼の旅に出た。とこが、堂ケ森のお祭りが近くなり、村人がお堂に出かけてみるとお地蔵が消えてしまっている。困った村人は代わりの地蔵を作って急場をしのごうとしたところ、祭りの当日、地蔵を背負った庄九郎が帰ってきたので、村人は怒って詰め寄ったが、事情を聞いて、それならばと無事に許されたという話が伝わっている。爾来その地蔵は「背負い地蔵」と呼ばれるようになったという。


お堂に安置されている「背負い地蔵(中央)」など三体のお地蔵さん。

そんな謂われを裏付けるようにその時に代わりに作られたという大きな地蔵が今も背負い地蔵の隣に座している。そこには当時の縁日であった明治33年3月24日の日付が刻まれている。なお、向かって左端の地蔵には元治元年(1864年)大西ノ川とあるが、これは不動山を越えて尾根伝いに「堂ケ森」の地蔵信仰が広まっていたことを物語るものと思われる。また、「背負い地蔵」は縁結びの他、願をかけると博打に勝てるという風評が広がり、お守り代わりに石を削って持ち去られたため、今はあちらこちらが欠けてしまっている。
ところで、そうした地蔵を祭る習わしは、現在も毎年新暦の5月5日に「堂が森地蔵奉賛会」を中心として中村市や西土佐村、十和村の三地区で続けられている。「お地蔵祭り」の縁日はたいそうな賑わいだそうで、お堂の前の広い境内では元気な子供たちに混じって女相撲も奉納されるという。

さて、お堂の後ろには天明時代から500年の神木といわれるヤブツバキが立っており、東には見事なアカガシの巨木が林立している。さすがに幡多地方屈指の名山といわれるだけあって頂は厳かな雰囲気に包まれている。アカガシのそばからは北東に十和村の山々が折り重なり、津賀発電所を越えて鈴ケ森へと幾重にもやまなみは続く。一方、お堂の南に少しだけ開けたところからは中村市の山々がのぞき、はるか市街地の向こうには海原も見える。


お堂の横から北東のやまなみを遠望する。

ところで、堂ケ森の三角点はお堂の右奥に見える踏み跡から北に1分ほどの所にある。鬱蒼とした林の中に二等三角点の標石があり、いくつかの山名板が見える。多くの山名板に、この山がたくさんの人に登られた証を見ることができる。しかし登頂記念の山名板の中にはステンレスのプレートを樹木に無造作にねじ止めしたものまであった。これには些かいたたまれない思いがして、登頂記念に山名板を立てる行為を改めて考えさせられたものである。


お堂の北にある三角点の周りはひっそりとしている。