御在所山 2000年7月22日
海のそばからでも市井からでも、奥深い山の中からでもこの山はよく目立つ。さして標高があるわけでも見事な特徴があるわけでもないが、物部川に張り出した三角形の山容はあちらこちらで目にすることができる。
だからという訳では無いのだろうが、この山も多くの伝説と別名を持つ。
その昔、合戦に敗れた平教盛(平清盛の弟)が安徳天皇を守り、険しい剣山系を越えてこの地に居を構えたところから御在所山とも、あるいは、亡くなった宰相「平教盛」をこの山に祭ったことから「御宰相山(御宰相の森)」とも、その由来は多い。
辺りの地名にも、平教盛が隠れ棲んだ地を大公方地(現:大久保)、安徳帝の御所を王屋敷(現:大屋敷)というなど平家伝説にまつわる話は多い。
なかでも「五在所山」と呼ばれていたことは、同じく高知県越知町の五在所山との関わりにおいて興味深い。ともに近くに安徳天皇最期の地として「大ボシ山」、「横倉山」があることからも。(なお、同じく平家伝説が生きづく山に愛媛県の御在所山もある)
いずれにしても、様々な伝説は私たちに自然への畏敬の念を抱かせるとともに、心の加護として更なる勇気を与えてくれるから不思議である。これから向かう御在所山への登山道は、山頂に建つ「韮生山祇(にろうやまずみ)神社」の参道であり、そこに敷かれた石や脇に建つ狛犬や石仏たちは始終私を励ましてくれた。
高知市から国道194号線で香北町に入り、絵本画家として有名な「やなせたかし」縁(ゆかり)の「アンパンマンミュージアム」を過ぎてほどなく、「大荒の滝もみじ峡」の看板にしたがい「新在所橋」を渡る。後は、「大荒の滝もみじ峡」の看板通りに進み、谷相(たにあい)林道に乗り入れれば、国道からおおよそ8.4kmで下の登山口に着く。ここが、高知新聞社の選定した四国百山のひとつ御在所山のポピュラーな登り口である。
登山口に建つ木馬茶屋。後方の山へと登山道は向かう。
登山口には、紅葉シーズンに賑わう「木馬(きんま)茶屋」が建っている。あたりにはトイレも、広い駐車場もある。登山口は茶屋の左手横である。
茶屋では清らかな水がホースから飛び出している。登山道に水場はあるが、念のため利用する場合は施設整備費を納め忘れないように。
さて、茶屋横の登山道を下の登山口と前述したのは、ここを更に車で行き詰めると上の登山口まで車で行くことが出来るためである。ここから舗装された車道を行き詰めたところにある上の登山口はちょっとした広場になっていて、マイカー5台程度は駐車できる。しかし、時期によって上の広場が満杯の時にはUターンに苦労するであろうから、心配なら下の茶屋前の駐車場から歩くと良いだろう。
茶屋前の駐車場から上の登山口までは徒歩10分あまりなので、仲間と一緒の山行きならおしゃべりであっという間の時間である。もちろん一人でも苦になる距離ではなく、事実私もここから歩いた。余談だが、山を目指すとき、一刻も早く山頂に着きたいと思う時と、少しでも山を歩いていたいと思う時とがある。この日の私は後者だった。
茶屋の横にある登山口。立派な木の標と、石標がある。
茶屋の横から歩き始めると、蛇行しながらクヌギの林を抜けて、よく手入れされた民家の敷地を両側に、約10分で左手に立派な石碑「平家観音像ノ碑」を認めると、すぐに上の登山口に着く。
「平家観音像ノ碑」は、この地の平家屋敷の傍の池から掘り出された6寸6分(約20p)の観音像が、二位尼(にいのあま=安徳帝を抱いて海中に身を投じたと言われる)の持っていたもの(護持仏)として、地元で大切に保管され、記念の碑を建設したものである。
上の登山口。奥に民家が建つが住人は認められなかった。写真右手に看板があり、左手石垣から登山道が延びている。
上の登山口からいよいよ山道である。右手に谷のせせらぎを聞きながら、左は竹やぶ、右はスギの植林を水平に進む。
5分ほどで、民家の取水口を過ぎ、小さな枯れ谷にかかる橋を渡ると石標の建つ分岐にさしかかる。石標には「五山道」と刻まれている。ここは右へと歩を進める。
暗い植林の中を登ってゆく。右手の林の中には鳥居と社殿も見える。
ところで、私の足元からは脱皮したての蝉たちがあちこちで飛び立つ。
まだ飛翔の下手な彼らは、たびたび私にぶつかっては落ちてゆく。逆さまに墜落して、しばらく足下で旋回しながらも、やがてまた飛び立ってゆく。それはまるで小さな森の妖精が次から次へと土霊として飛び立つようでもある。
それにしても、その鳴き声には閉口するのだが。
セミの襲撃や蜘蛛の巣をよけながら登ってゆくと、1番目の水場に着く。歩き始めて(下の登山口から)25分ほどが経過していた。
竹の樋(とい)から湧き清水が放物線を描く。左脇には竹のコップがさりげなく用意されている。
山肌を縫ってきた道も、ここから少し行くと尾根伝いの登りへと変わる。
あたりは植林で薄暗いが、おかげで夏の陽射しは遮られ歩きよい。
そんな植林の中で2番目の水場に着く。ここまで登山口から約40分ほど。
ここも竹の樋から透き通った水が落ちているが、水量は少ない。この日、梅雨明け後しばらく雨は降っていなかったにかかわらず、水は涸れてはいなかったので、少々のことでは涸れてしまうこともないだろうが、3番目の水場は涸れることが多いので、ここが最後の水場と思っておいた方がよいかも知れない。
水場の冷たい流れで喉を潤し、再び登りはじめる。
ずっと続く植林の中を登り、切り倒された松の巨木を認めると、目の前の草原が桜の名所として知られる広場である。
もうひとつの登山口「大久保」の集落から登ってくればここで合流することになる。
ここまで登山口から約45分。
石の鳥居が立つ広場には山桜の古木がある。
広場には、大正13年9月吉日と記された立派な鳥居が建ち、その奥には急な石段が延びている。
木のベンチや、外れにはトイレもあり、奉納相撲のとられた土俵らしき場所もある。
鳥居のそばには見事な石灯籠があり、鷹の彫り物がとまっているのは珍しい。
辺りには山桜やスギの大木がある。桜の木は相当に年老いてはいるが花時は見事であろう。
かつて歌人吉井勇はこの桜を「寂しければ、御在所山の山桜、咲く日をいとど、待たれぬるかな」と詠んでいる。
*吉井勇=明治19年10月8日東京生まれ。明星派の歌人。土佐の自然をこよなく愛し、昭和9年に御在所山の東に位置する猪野々地区に渓鬼荘(けいきそう)を結んだ。