少し休んでから山頂に向かって照葉樹林に挟まれた尾根を歩き始める。
「境56」の山界標石が立つ小さなコブからは、木々の間越しに久礼坂を上り下りする車の列が見えている。
コブから少し下り、道なりに歩くと山肌に突き当たって突然行く手が途絶えた。一瞬戸惑ったが、よく見ると「道」は急斜面を真っ縦に駆け上がっている。
よくもまあ、と呆れてしばし佇んだ。まるで「壁」のような急斜面である。ここに中世の城でも築いていたなら難攻不落の山城として名を馳せたことだろう。ともかくも、ステッキを縮めると意を決して山肌に取り付いた。


壁のような急斜面に挑む。

谷沿いの道が「楽」過ぎるほどなだらかだっただけにこの急登はふくらはぎに堪える。
喘ぎながら「壁」を直登すると「境52」の標石を過ぎてようやくなだらかになり、ひと息ついた。喘いで失った水分を補給すると、林の間から久礼の港を眺める余裕も出てきた。よく見ると奥には須崎や野見湾も見えている。

ヤセ尾根を少し下ると再び登り坂にさしかかる。見上げる頂はまだまだ高い。
しかし、エンジンのかかった身体に先ほどまでの難儀は感じられない。
藩政時代には「不許採伐」の山だった「火打之森」も今はほぼ全山植林に覆われているが、僅かながら尾根筋には豊かな林が残されている。そんなシイやカシの雑木林に顔を出したツチトリモチを踏まないように、立木を手で探り寄せながら再び壁のような坂をよじ登る。荒い息遣いの割に足取りはしっかりしている。


一歩一歩を確かめながら急坂を登る。

大きなアカガシをたびたび見上げながら最後の坂を登りきるとなだらかな山頂に出た。
「境37」の標石が立つT字路を右にとればすぐに三等三角点の標石が埋まる火打ケ森の頂である。
三角点の傍らには小さな登頂記念の印が控えめに立てられているだけで、特に目を惹くものはない。国地院の標石が無ければありきたりの林である。したがって周りは木々に覆われて、眺望は利かない。
山頂からは西に明確な山道が植林の中を下っているが、どこに到るかは定かでない。たぶん森林管理署の管理道であろう。
ちなみに、頂の東には上ノ加江や久礼から尾根沿いの山道が二筋上がってきているが、いずれにしてもこの山は四方からよく目立つだけに屹立しており、標高のわりにはどこから登っても険しい山である。


三角点の標石が埋まる山頂にたどり着く。

ところで、頂を東に行くと、小さな手水鉢(手洗石)に出会ってちょっと驚いた。
半分ほど腐葉土に埋まっているが、側面には安政の年号と奉納者「辻勘左ヱ門」の名が刻まれてある。
火打ケ森に纏(まつ)わる伝説は中土佐町側に多く、特に「山立て(船から見える山々を目標にして漁場の位置を知る手だて)」の山として上ノ加江の漁師に親しまれていたとも言うので、ひょっとして山頂には恵比寿や海神見を祀った神社があったのかも知れないとふと思った。
しかし、それでは手水鉢の「方向」があやしいことに気づいた。手水鉢は明らかに「北」を向いて置かれていた。「海」ではなく「山」を向いていたのである。「北の山」それは石鎚ではなかったろうか。
たぶん木製だったのであろう鳥居や社(祠)は残骸すら認められなかったが、おそらくここには石鎚神社(遙拝所)が祀られていたのではないかと、その時の私は思った。


左手前に四角形の手水鉢がある。

後日のことだが、山頂にあった手水鉢の奉納者は、道徳の名家「辻家」縁の人だと分かった。
その頃のことを伝え語れる人も辻家にはもうおいでないが、この辺りの詳しいことは辻家と親交のあった郷土史家林一将さんからおうかがいすることが出来た。
山頂に捨て置かれた手水鉢といえば、そう、五在所ノ峯(標高658m)を思い浮かべるが、ここ火打ケ森も五在所ノ峯と同じく修験の活躍した行場だったといわれる。
篠懸(すずかけ)に結袈裟(ゆいげさ)の験者はこの火打ケ森の壁のような急坂に挑み、山頂で護摩木を焚き、厳しい修行に身を賭したのであろう。ひょっとしたら辻勘左ヱ門氏は敬虔な信者だったのかも知れないし、あるいは威厳ある先達だったのかも知れない。
いずれにしても麓で彫った手水鉢を山頂に持ち上げるのは並大抵のことではなかったろう。小さな物とはいえ、ずしりと重たい「石」を担ってあの壁のような急坂をよじ登る厳しさは想像しただけで気が遠くなる。
しかし、苦労の甲斐あって、無事に頂へ据え置いた時は、心の底から晴れ晴れとしたに違いない。その後、印を結び一心に唱える加持祈祷の声や法螺貝の音は、ひときわ高らかに四方の峰々へ木霊したことだろう。

そんな苦労をして、重い石を背に登ってきたのが、ここの急坂とも知らず、帰り道には何とはなしに山を下ってしまった。
足もとにころころしているドングリのように転げながら坂を下った。


流れを追いかけて山道を下る。

水面を走る落ち葉に、幾度と無く追い抜かれながらも、見覚えのある作業道に出ると登山口に帰り着いた。

あの青年は器用に重機をオペレートしながら忙しそうに立ち働いていた。
こちらを一瞥した目に、もう好奇の色は無かった。
私も軽く頭を下げただけで、もう声を掛けることもなかった。
何しろ胸を張って誇らしげに報告することが何もなかった。素晴らしい眺望も、見事な自然林も無かった。
唯一、手水鉢以外には。しかし、手水鉢は時代を超えて様々なことを物語ってくれている。私はそのことだけでも彼に報告しようと振り返ったが、彼女が私の袖を引いた。
「止めておきなさいよ。そんなモノに興味があるのはあなただけでしょう。」、と、彼女の目は語っていた。
窘(たしな)められた子供が黙ってうつむくように頭を垂れると、ため息をついて車に乗り込んだ。
青年ももう二度とこちらを見なかった。


山頂手前の尾根筋から久礼方向を眺める。左奥は蟠蛇森。


<参考文献>=土佐州郡志、窪川町史



私たちのコースタイムは以下の通り。
【往路】
登山口<30分>谷の分岐<46分>尾根<25分>山頂
=101分

【帰路】
山頂<20分>尾根<40分>谷の分岐<29分>登山口
=89分

*台風の崩壊地を迂回するなどしたために、「谷の分岐」から「尾根」の間は、通常より登山時間が長くなっています。


登山ガイド

【登山口】
火打ケ森に登るには主に次のようなコースがあります。
(1)七子峠からの縦走、(2)道徳からの作業道、(3)上ノ加江からの支尾根道(かつて日本山嶽志に紹介されたコースで、現在の詳細は備考に追記してあります)など。
このうち、七子峠から上り道徳に下りると、充実した山行きが楽しめるでしょう。その場合は2台の車を回送すると良いでしょう。
今回紹介した道徳の登山口へは、須崎市方面からですと、国道56号線でJR影野駅前を通過してまもなくJRの高架下をくぐるとすぐに、山株の交差点を左折します。ほどなく現れる龍石トンネルを抜けるとすぐのT字路は左折し、道徳の集落に向かいます。集落を過ぎて車道が未舗装になると、小さな橋を渡ってまもなく、左手に貯水タンクが見えてきます。ここまでトンネルを抜けたT字路から2kmほどです。登山口はこの貯水タンクから更に500mほど行った車道終点です。当時は林業作業用の広場になっていましたが、それから1年以上経過していますので、現在は状態が変わっているかも知れません、注意してください。

【コース案内】
道徳からのコースは七子峠からの尾根筋(稜線)に出るまで、延々と大井川の源頭部に向かって遡ります。何度か谷を横切りますが、主に谷の右岸(上流に向かって流れの左側)を通ります。なお、地図にもあるように谷は途中で二手に分かれますが、そこは左の谷に沿って歩きます。尾根に出るまでの道は高低差も少なく歩きやすいのですが、文中で触れたように台風で荒れた箇所には気をつけてください。
七子峠からの尾根(稜線)に出ると、右手にとって尾根を辿ります。かなりきつい直登もありますが、ゆっくり歩いても半時間ほどですから、焦らずマイペースで山頂をめざしてください。なお、急坂は登りより下りに気をつけてください。


備考

尾根に出てから水場はありません。

火打ケ森は火打之森とも火打山とも呼ばれていました。一説にはその山容が火打石に似ているところから名付けられたといわれています。

ここに紹介したコースは谷を渡渉する機会が多いので、安全のために増水時は山行きを控えられた方がよいでしょう。

今回の文を記すにあたっては、この界隈をメインフィールドに活躍されておられる土佐石造物研究の第一人者林勇作さんや、山頂に奉献されてあった手水鉢の縁者であられる辻家の方々、窪川町史編纂編集委員長を務められた林一将さんをはじめたくさんの方々にお世話になりました。改めて御礼申し上げます。特に林一将さんには多大なご教示をいただきました。重ねて心より感謝を申し上げます。

<追記>2006年3月
年に一度は火打ケ森に登っておられる上ノ加江出身のS.Mさん(40歳)から、山名や上ノ加江ルートに関して貴重な情報を頂きましたのでここに追記します。
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上ノ加江側のルートは昭和20年代には上ノ加江小学校の遠足コースだったもので、私は母親から聞いたルートで登っていました。ただし、上の加江側は現在「山内」にある「高野山林道の終着点」から登り始めますので、土地の人以外はあまり使わないルートかもしれません。
植物などを観察されるようでしたら、「山ノ神神社」の社叢もおすすめです。尾根筋には海抜400mを越えるあたりから良いアカガシの林が出てきます。昔(1982年頃まで)はJRの鉄道のあたりまで、うっそうとしたシイ・カシの自然林(原生林に近い)でしたが、現在はその面影はわずかな残存林分に見られるのみです。
火打ケ森の語源としては、「昔大津波が来て、山の頂上が火打石くらいの大きさしか残らなかった」という伝説もあります。ノアの洪水のような荒唐無稽な話ですが、伝説としては耳を傾けてもいいかもしれませんね。私が子供のころに上の加江で聞いた話です。
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たいへん親切な情報をありがとうございました。


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