オンツツジや、カイナンサラサドウダン、アカシデやモミ、アオハダなど、樹種の豊かな林を登れば、ひときわリョウブの木が目立つ辺りを通過して、アカガシの優先する林に入る。
さすが今ノ山風景林だけある。アカガシなどのカシ林にモミ、ツガなどの混じる針広混生林の天然林はそれだけで深山の趣がある。
初冬の林でさえこんなに心地よいのだから、季節が春から秋なら、林床に様々な山野草を楽しみながら時のたつのも忘れるに違いない。
亜熱帯植物が有名な土佐清水市でありながら、足摺や大堂などの海岸帯には見られない植物が分布し、谷沿いのシダやコケ類などには学術上貴重な植物も多いと聞く。
珍しいと言えば、今時分ならあの奇妙な植物「ツチトリモチ」の熟れたように赤い坊主頭と出会える楽しみもある。
リョウブの木の群落を眺めながらひたすら登る。
名だたる山だけあってその懐は想像以上に深く大きい。なにしろ、今ノ山から延びる尾根は南で足摺半島を形成し、西尾根は大堂山を経て美しい西海にいっときその尾根を沈めてから南西の沖ノ島にまで延びているくらいなのだから。
だからこれが夜道で迷い込んでしまったなら忽ちとてつもない恐怖心に襲われてしまうに違いない。
そんな想像に足りる、恐ろしい話が伝わっている。
昔、土佐清水市三崎から三原村広野へ嫁いだ女が、夫婦喧嘩の末に今ノ山を越えて実家に帰ることにした。
浜育ちで気丈な女は頭に枠を乗せ、その上にロウソクを立てて夜道を急いでいたところ、山中で修行中の山伏がその姿を見て、もののけと思い斬り殺してしまう。が、よく見ると普通の百姓女だったので、山伏は自責の念に駆られ自害したといわれ、今ノ山山頂にある地蔵が、その山伏の霊を祀った「ひなたの地蔵」だと言い伝えられている。
ちなみに、これには異説もあって、実は女が山伏を殺したのだという言い伝えもある。
それによると、三原村に嫁いだ三崎の豪商「ます屋」の娘が、姑の仕打ちに耐えきれず乳飲み子を残して実家に帰ったが、残した子供が忘れられず、今ノ山越えの間道を通る時、突然目の前を横切る白いものを妖怪と思い、恐ろしさの余りに殺してしまう。あとでよく見れば山伏が血に染まり息絶え絶えに嘆願するも、女は罪を恐れて山伏を谷底に落として殺してしまう。その後、一人の山伏が娘の家を訪ねたことから娘の行為が発覚し、家人は山伏の骨を拾って手厚く葬る。それが「ひなたの地蔵」だと言われ、その時の娘はまもなく原因不明の死を遂げ、「ます屋」は衰退していったと伝えられている。
三崎から広野に通じる「今ノ山越え」の道は、明治中頃まで頻繁に利用されていた間道であった。今でこそ不釣り合いなほど立派な車道に取って代わったが、これは多くの人が昼なお暗いこの山を越えていた時代の口承である。
真意はいずれにしても、深山の今ノ山らしい伝説といえよう。
山頂が近づくとアカガシの大木が多い。
そんな恐ろしい話に肝を冷やしたためか北風が肌寒く感じられると思ったら、いつの間にかなだらかになって汗がひいたせいだった。
緩やかなアカガシの林で、右手に折り返す踏み跡と出会う。分岐のもとには大きなアカガシが立ち、赤いテープも見えている。もうこの辺りは山頂に違いない。三角点に向かう道と信じて踏み跡に入ると、案の定、すぐに1等三角点の大きな標石が見えてきた。そばにはささやかな山名板が添えられてある。
周囲は樹木に囲まれて展望は望めない。唯一開けた三角点の真南には空を覆うくらい大きなドームが聳えて、異様な雰囲気さえする。
空を覆うドームのそばにひっそりと三角点の標石がある。
見所のない山頂からすぐに分岐まで引き返すと、更に遊歩道を辿り、かの「ひなたの地蔵」に向かった。
分岐からほんの少し行くと「今ノ山風景林」の案内板が現れ、近くにあるレーダー施設のフェンスのそばに、そっとそのお地蔵さんは佇んでいた。
舟形の石に半肉彫りで合掌する地蔵の姿は、先の伝説ゆえに少し淋しげなお姿にも見える。
ところで、この地蔵にはよく見ると、「安永九子年七月、羽根浦代増屋」と刻まれている。
東西に細長い高知県の、それも西の外れの高山に、高知県東部の漁村の名前があるのも訝しいが、これは今ノ山が航海の位置を知る上の目印となり、山にかかる雲で観天望気もとっていたため、航海安全祈願にたてられたものだともいわれる。
しかし、航海で重要な目印の山といえば鷹取山(307m)であろうし、この地蔵はやはり何らかの供養で立てられたものではないだろうか。
先の伝説や、あるいは山越えの間道で行き倒れた者の供養なのか、だがそれなら、間道の難所であった峠に安置していそうなものである。
真新しいシキビが添えられた通称「ひなたの地蔵」。
そこで、不思議に思っていた私の謎を解く鍵は「土佐清水市史」にあった。
その中の「今ノ山伐材」の項に、藩政時代に今ノ山の伐採を請山した専売商人のひとりに豪商「代増屋(*2)」があったことが述べられている。
するとこの石仏は山林作業殉職者の供養のためだったと思うのが率直な考えであろう。
当時の過去帳はほとんど残っていないそうだが、三崎にある香仏寺の過去帳には「天明三年(1783年)羽根浦八十平、天明四年(1784年)羽根浦安蔵」の記載があり、地蔵の年号「安永九年(1780年)」とも相前後する。
これはやはり、山師の弔いの碑であろう。
嶺北や安芸地方など、搬出路も水運もそれなりに整備された場所とは違い、不便な地で重労働に命を落とした山師の過酷さが窺い知れよう。
とはいえ、地蔵は誰の供養のために建てられたものであれ、西の彼方で、報われない人々に救いを与えているに違いはない。乳飲み子を残して逝った女も、間違われて斬り殺された山伏も、行き倒れた旅人も、別け隔て無く救済するために、ここにこうして今も地蔵は合掌しながら立ち続けているのであろう。
(*2)当時、藩有木材や請山の専売を得ていた二大豪商のひとりといわれる。他には今ノ山の南面を請けた中ノ浜浦の豪商「山城屋」があった。
落ち葉から顔を出した不思議な植物「ツチトリモチ」
そんな風に思いながら、地蔵にもう一度、手を合わせてから、その場を後にして天然林の残る尾根を三原村との境に向けて少しばかり歩いてみた。
なだらかなアカガシの林はどこまでも繁く、冬間近ながら今も深い緑に、しばし心を洗われる思いだった。
さて、帰り道には登りで見落とした驚きや発見を探しながら、ゆったりと来た道を下った。
そうして、車道脇の登山口まで引き返すと、こちら側にはゲートが無いことを幸いに、悠々と管理道を歩いて、堂々とゲートをすり抜け、「四国百名山(*3)」のひとつを歩き終えたのだった。
(*3)今や古典ともなった名著、高知新聞社発行「四国百名山」のこと。
管理道脇にある今ノ山遊歩道入り口。
*私たちのコースタイムは以下の通り。
【往路】
登山口<15分>管理道脇遊歩道入口付近<18分>尾根<19分>山頂
=計52分
【往路】
山頂<16分>尾根<16分>管理道脇遊歩道入口<9分>登山口
=計41分
登山ガイド
【登山口】
県道21号線で高知県幡多郡三原村に入り、久繁地区から亀ノ川に向かう村道を数分で、「大規模林道、公団幹線道(清水三原区間)」に乗り入れます。大規模林道入り口には立派な標識があります。
林道入り口から広い車道を約6.7kmほど登ると三原村と土佐清水市の境になります。そこから林道を800mほど下ると、左カーブの外側に管理道入り口のゲートが現れます。管理道入り口の分岐から更に30mほど下ると、右手路肩側に「今ノ山風景林」の案内板が立っています。ここが登山口です。車は路肩に駐車します。
【コース案内】
案内板の右横から谷に降りると、谷を渡って右岸を遡ります。途中で道が谷に消えますが、左岸を5mほど進み右岸に渡ると植林の中に再び道が現れます。
この後、戸惑う所は少ないと思いますが、道は少し荒れていますから歩行には注意してください。
10分あまり歩くと、管理道の橋の下をくぐり、管理道からの遊歩道と合流します。合流地点には「登山道」と書かれた道標が立っています。
明確な登山道を3分ほどで小谷を渡ると、その小谷の左岸を遡ります。この先、ヒメシャラの木の目立つ林を抜けると、道が一部不明瞭な所もありますが、相変わらず小さな谷の左岸をずっと登ります。
やがて、ヒメシャラの木のもとで「登山道」と書かれた道標に出会うと右に折れて谷を離れ、2分あまりで尾根に出ます。
尾根にとりつくと、山頂まで20分ほどジグザグに尾根を登ります。少し急な坂道ですが焦らず登れば、広くなだらかなアカガシの林になって、ドームの建つ山頂に辿り着きます。
なお、ゲートから管理道を歩いた場合は、10分ほどで右手に遊歩道入口が現れます。入口には「登山道入り口」などの道標や境界見出標などがあります。
備考
谷を離れると水場はありません。
今ノ山の頂は双耳峰で二つのピークがあります。
三角点のあるピーク(864.6m)よりも三角点の無いピーク(868m)の方が標高が高く、一部の文献(「日本山名総覧(白山書房)」など)では、三角点の無いピークを山頂の標高としていますが、ここでは、「高知県の地名(平凡社および角川書店)」「土佐清水市史」「コンサイス日本山名辞典(三省堂)」などを参考に、三角点の標高を採用いたしました。
この文を記していた2004年3月15日夕、今ノ山にて2日間道に迷った女性が県警防災ヘリに救助されたというニュースに接しました。
詳しいことは分かりませんが、くれぐれも注意して入山してください。