小式ケ台 2003年9月
山間(やまあい)の急斜面にへばりつくようにして、僅かばかりの民家が肩を寄せ合い小さな集落を形成している。
水田を拓くだけの平地も水も乏しく、切畑や、カジやミツマタなどの和紙原料、桑による養蚕などが生計の糧だった。ここは吾北村南越(みなごし)の集落である。そういえばお隣の池川町にも同じような山村風景があったが、あそこは椿山といった。
集落を抜けるといよいよ急な山道にさしかかるのが大概の山登りの常だが、ここは民家を縫う生活道からして胸突き八丁である。しかしおかげでその集落に至った時点で標高を稼いでおり、後の行程は随分楽なものだった。
椿山は最奥の集落だったが、ここ南越はこんな山間にありながら、更に奥(北)に位置する集落の通過点であった。
かつて峯越(みねこし)と呼ばれていた集落名が南越に転訛したのも「北」の人たちが名付けたものであろう、峠越えの道は成川や花ノ木、大野、あるいは更に本川とを結ぶ往還であった。
今でこそ、車道が尾根で隔てられ、峠を越える人はまるで居なくなったが、それまでは郵便配達や行商など、徒歩で越える往還が「北」の人々の生命線だった。
民家の板壁や張り巡らされた石垣を眺めながら、そんな南越の道を辿れば、延命地蔵の待つ峠まで、もうそれほど時間はかからない。
めざす峠には杉の巨木が抜きんでて、背後の空は何処までも青く、行く夏の偲ばれる穏やかな朝のことだった。
小式ケ台の山腹に拓かれた南越集落。
吾北村の小式ケ台に登ろうと、初めて地図を広げたのはひと月前のことである。それから時々思い出したように地図を眺めては、あれこれルートを思案するのが密かな楽しみだった。どこから登ろうか、あるいはどんな風に歩こうか、いつものことだがこれが実に楽しいひとときである。
だから、コース選定する楽しみを奪われて他人の決めたコースを歩くとなるとなんだか物足りない思いさえするものだが、まあ、それは贅沢な悩みでもある。ともかく、南越から登ることに決めて登山口に向かいマイカーを走らせたのだった。
南越集落に向かう唯一の車道に乗り入れると、蛇行しながら標高を稼いでおよそ5kmでアンテナ塔への道と南越集落との分岐が現れる。南越集落への道標に従い、左手に折り返して狭い車道を500mほど行くと終点が小式ケ台への登り口である。しかし、車道終点は回転場なので車は手前の谷そばにある広場へ停める。
車道終点の登山口。背後にめざす山頂が見える。
車道終点から本格的に歩き始めると、左上に小式ケ台の山頂が、正面上には峠が見えている。
それにしても集落には廃屋が目立つ。かつて40世帯ほどあった民家も現在は10軒足らずになってしまったという。
主をなくした民家の裏山に咲くヒガンバナや道ばたにわがもの顔のツユクサなどを眺めながらそんな集落を行くと、ひときわ洒落たログハウスが異彩を放っているのに驚くが、これが「南越山荘」である。地元出身の方が地域との交流のために建てたと聞いた。ふるさとを思う心とひたむきな努力のたまものであろう、素晴らしい方もおられるものとひとしきり感心する。
集落の上部で振り返る。山襞(やまひだ)の重なりが深すぎて麓が見えない。
集落を抜けた山道は石垣に沿って杉の植林に入ってゆく。
素朴な木製のベンチが置かれた四つ辻では左手に折り返して緩やかに登ってゆく。さすがに広くてしっかりした道が続いている。
植林の中には電信柱が電線を運んでいる。更に奥にも民家があるのだろうか?電線はどこに向かっているのだろう?謎を解きたい一心で電線を追いかけながら山道を登る。
ほどなく右手に大きな岩が見えてくると、岩のたもとに石仏が見える。大正の年号が見える石仏は行き倒れの供養でもあろうか、注連縄が添えられてあった。
「成川道」とも呼ばれた往還は林の中を登っている。
植林とモウソウチクの林を繰り返し、蜘蛛の巣を払いながら上をめざす。やがて右に左に折り返して高さを稼ぐと一気に峠に出る。
ギボウシの咲くカヤ原の峠には土手の中ほどに峠の地蔵があって、近くには杉の大木がそそり立ち、石積みに囲まれて大師堂(お大師さん)が隠れている。
地蔵のそばからは峠を北に越えて成川に下る道が夏草に埋もれている。
地元の人に柴折さまとも呼ばれ、集落の四方を守る役割も担っている峠の地蔵には天保十一年の年号が刻まれ、珠を持って立つ物静かな地蔵尊が彫られている。はるか藩政時代の頃から、峠を越えて行き交う人々はこの地蔵の前で手を合わせていたに違いない。「邑中安全、えん命地蔵」の文字を手でなぞりながら、地蔵を安置した人々に思いをはせて、静かに手を合わせた。
峠で夏草に埋もれている延命地蔵(左)と、石組みに囲まれた大師堂(右)