さて、林道に下りてからは白髪の集落跡を見ながらなだらかに下ってゆく。
竹に侵食され朽ち果てた家屋や、崩れかけた塀や石垣の無惨な屋敷跡などが両側に続いている。
集団移住により可能な限りの家屋は麓の極楽団地に移築され、先祖代々の墓や氏神を祀ってあった白髪神社までもが麓に移され、残っているのは想い出とともに捨てられた残骸ばかりである。
そこには、まるで狂ってしまった石垣のように音を立てて崩れ去ったひとつの時代が垣間見える。

白髪の集落は、かつて平家の落人だった平蔵と孫八(*1)の兄弟が移り住み、多くの分家を輩出させて、すべて小松姓を名のる一同族一村落を形成したといわれる。
その兄弟がこの地に辿り着いた時、突然白髪の翁が現れ、驚く二人をかつて白髪神社を祀った場所まで導き姿を消したという。そこでこれを良いことの前兆として白髪の翁にちなんで白髪神社を祀り、地名も白毛から白髪に変えたのがこの集落の始まりだという。
しかし、そうして結束の堅かった一族が集団移住の道をたどらざるを得なかったのはなぜであろう?

(*1)一説には、「さいのじょう」と「べんす」という兄弟だったともいわれる。


かつて村を潤していた用水路は崩れ落ちている。

先にも述べたように、山頂集落であった白髪では水の苦労が耐えなかった。
かつて村内にはツルイ(湧水池)と呼ばれる水場が3箇所あったが、風呂や洗濯は雨水に頼る生活であり、そのツルイからも安定的な供給は望めず、昭和30年代はじめに設置された用水路や簡易水道の施設ですら風雨の後は土砂で埋まり、日照りが続けば取水できない有様であったという。
加えて農林業や出稼ぎに依存する生計にも限界が訪れ、一時30戸あった家々も次々に村を去り、ついには残された17戸も集団移住の道を選択せざるを得なかったのである。
それは田辺寿男氏のいわれるような宗教的崩壊が主因だったのかもしれない。
あるいは私は、芸西村が豊かな平野部を中心とした村であり、貧富の差をまのあたりに感じたことも要因だったように思う。
私の田舎もそうだったが、あの頃なら山間部に入れば白髪のような集落は少なくなかったはずである。
それが互いに慰め合う生活に甘んじることなく移住の道を選択したところに白髪をはじめ板渕や宇留志などに暮らした人々の強い意志を感じるのである。
それが沖(山に対して海岸地帯の平野部をいう)の暮らしぶりを間近に見てきた人々の原動力であり、田辺氏のいわんとするところのフロンティア精神なのかもしれない、と思うのである。


和食尋常小学校白髪分校跡。鬱蒼とした竹藪の中に朽ち果てた校舎が見える。

さて、そんな集落の跡を抜け、かつての和食尋常小学校白髪分校の脇を通過すると、林道に下り立ってから10分あまりで朝乗り捨てたマイカーが見えてくる。

今では鬱蒼とした竹に支配されている白髪分校だが、分校最後の日には二人の卒業生がいた。
そして、冒頭で紹介した少年は集団移住がなければ、二人の卒業生と入れ替わりにこの分校へ入学するはずだった。
お兄ちゃんたちを慕ってたびたび分校に遊びに来ていた少年はしかし、ついにその教室で学ぶことはなかった。


白髪の集落跡を歩くといろんな想いが胸を駆けめぐる。
山での営みは苦労ばかりだったのだろうか?、山を下りることで夢を見た人々は沖に出てほんとうに豊かになったのだろうか?
しかし、その答えはすべて「ぼくの村は山をおりた」の中にあった。
写真集の後半にはあの少年の25年後の姿が飾られてあった。
ビニールハウスの中で働く彼の額に浮いた汗と、変わらない澄んだ瞳の輝きが、語らずともすべてを物語っていた。

 
白髪の人々は村を下りても、今も変わらず花を着けるツツジとヤマザクラ。人は変わってゆくからこそ変わらないものが愛おしく思えるのかもしれない。



*全行程の私たちの所要時間(コースタイム)は以下の通り。
【往路】
登山口<63分>目高森<3分>大アカガシ<56分>送電鉄塔<22分>三辻森<46分>林道(登山口)<12分>和食尋常小学校白髪分校跡
=計202分
*今回はマイカーを回送した縦走のため復路のコースタイムはありません。


備考

目高森は「めたかもり」「めだかもり」「めだかがもり」「めだかのもり」などと呼ばれます。ここでは大アカガシにとまっていた天狗の民話を採用し三角点名に近い「めだかもり」を採用しました。
なお、三辻森は「みつじもり」「みつじがもり」「みつもり」と呼ばれています。

登山道はすべて尾根伝いのため水場はありません。歩行時間が長いため、飲み水は充分に持参してください。

時間的余裕などが無い場合は三辻森の手前の送電鉄塔からのエスケープルートを利用して芸西村久重あるいは羽尾に、もしくは安芸市小谷に下りることもできます。
その場合は送電鉄塔から東に下れば小谷へ、鉄塔の南西にある654mのピークから西に鉄塔巡視路を辿れば久重に至ります。

芸西村北部には白髪と同時期に集団移住した廃村の板渕や宇留志があります。久重に下ればそんな集落跡を巡るのも趣があるでしょう。
また、白木山(国光)にはカノコユリの自生地があり、花時は7月下旬頃です。

夜須町羽尾には大釜の滝があります。
羽尾大釜荘から1kmほど南東にあり、車道脇から山肌を10分ほど下りると名前の通りの大釜に出会えます。大釜の滝壺はお隣りの香我美町撫川にあるクレ石の滝に通じているといわれ、滝壺に済む龍が行き来していたと云われます。
さすが大釜の滝といわれるだけにスケールの大きな話ですが、その頃のこの辺りの生活圏を物語る興味深い口伝です。


大きな滝壺に幾段にもなって流れ込む大釜の滝。

夜須町羽尾の集落上部には長谷寺(ちょうこくじ=真教山平等院長谷寺/通称槇寺<まきでら>)があります。
この寺は800年前、長谷という地にあったものが竜巻で現在の地に飛ばされてきたと言い伝えられています。
長谷寺の本尊は木造十一面観音立像(国指定文化財)であり、他に文明3年(1471年)の銘がある梵鐘(県指定文化財)や木彫りの仁王像などがあります。
この寺は藩政時代には歴代藩主の番華所ともなった由緒ある名刹で、香美郡南部や安芸郡西部の仏教聖地であり、この寺に向かう参道には現在でもいくつかの道しるべが残されています。


長谷寺の山門。梵鐘や木彫りの仁王がある。

最後になりましたが、この記録を著すにあたり、芸西村教育委員会小松次長をはじめたくさんの方々のお世話になりました。この場をお借りして心よりお礼申し上げます。

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