辿り着いた野地峰山頂には頭のない地蔵が一基あり、近くには山名板が立てられている。地蔵の周りはササもなくお弁当を広げるには最適だが、風の強い日には遮るものが無いのが難点ではある。
三角点は少し離れたところでササに囲まれてあり、野地峰の三角点等級は4等である。
三角点の標高は、古い地図や嶺北ネイチャーハントの立てた山名板などには1278mと表記されているが、正確な現在の標高は1279.4mである。
三角点から北に下ればかつての富郷村城師(現伊予三島市城師)で、西に稜線を辿れば滑車台跡を経て尾根を南下し山村広場やバーベキュー広場に下りることができる。回遊コースとして後者のルートは各種ガイドブックにも紹介されており、急傾斜の下りもあるが踏み跡は確かで概ね歩きやすい中級コースといえよう。
野地峰山頂。中央には頭のないお地蔵さんが座している。(2001/05/03)
さて、野地峰山頂からは360度ぐるりの展望が広がっている。
南に白滝を俯瞰すると、かつて600人近い児童生徒が学んだ白滝小中学校のあった樅ノ木地区にはバーベキュー広場などがあり、その下手には野地峰の由来となった野地の集落があり、ここはかつて鉱山街を形成していたのである。また、その対岸の早天山には昭和55年に完成した大川村肉用牛肥育センターの放牧場や畜舎なども見えている。
そしてその遙かには稲叢山から能谷山、前工石山から笹ケ峰、国見山、更に陣ケ森や岩躑躅山(いわつつじやま)、鎌滝山なども指呼できる。
東の展望。大座礼山や東光森が見えている。(2002/05/12)
また、山頂から西には東光森山や大座礼山が重なり、その奥には平家平が見えている。
北には、銅山川に建設された富郷ダムが眼下に見えて、赤星山から翠波峰への尾根が緩やかな線を描いている。
空気の澄んだ季節ならその向こうに三島や川之江から立ち上る煙突の煙や瀬戸内海も望むことができよう。
北には富郷ダムや赤星山などが見える。(2002/05/12)
一方、東には尾根続きで黒岩山(麻谷山)、登岐山(大登岐山)と指呼してゆけば大森山、佐々連尾山と県境の稜線を辿ることができる。
今回は、これから目の前に見えている黒岩山をひとりめざし、そこから南下して早天山を経由して登山口まで戻る予定なのだが、未知の稜線は相当のブッシュかもしれない。辿るルートを目で追いながら、これから踏み込もうとする尾根筋の地形をしっかり頭にたたき込んだ。
反射板を経て黒岩山、登岐山(大登岐山)と続く。(2002/05/12)
ところで、野地峰を後にして黒岩山に向かう前、もう一度首のないお地蔵さんの前で合掌をした。
ちょうど1年前、この山には彼女と二人きりで訪れていた。
いろんな事があってひとりで生きていこうと決めてからそんなに日数(とき)を経てはいなかったから、私の中には臆病になっている自分と有頂天になっている自分が同居している頃だった。
そんな私だったが、彼女の屈託のない笑顔には随分助けられた。
お陰で、あの時ここで両手を合わせたお地蔵さんにこうしてお礼を言いに来ることができた。
合わせていた手を解き地蔵を背に黒岩山に向かって歩き出した。
ふっと何気なく振り返ると、そこには満面にこやかなお地蔵さんの笑顔が見えたそんな気がした。
心の中の霧が晴れるように、辺りをおおっていたガスも退くと山肌を彩るミツバツツジが目に飛び込んできた。(2001/05/03)
(黒岩山に続く)
*全行程の私の所要時間(コースタイム)は以下の通り。(黒岩山を含む全行程については黒岩山の項に記載します)
【往路】
登山口<5分>林道別れ<35分>水場<21分>山頂
*2001年5月3日記録
【復路】
山頂<15分>水場<22分>林道別れ<4分>登山口
*2002年5月12日記録
備考
山頂から西に回遊して下山する場合帰途のおおよその所要時間は、山村広場まで1時間45分、バーベキュー広場まで2時間ほどもみておけばよいでしょう。
なお、山頂から東に黒岩山(麻谷山)を経由し早天山に向かうコースはスズタケや岩場に難儀すると思われますから、決して山慣れた人以外踏み込まないでください。
白滝を流れる朝谷川には「后ケ渕(妃ケ淵)」や「下女ケ渕」と呼ばれる滝があり、高僧「釈善聖」にまつわる伝説があります。
石鎚山の開基僧として名高い「釈善聖」は、京の都で皇居の命を受け雨乞いの祈祷を行ったところたちどころに雨が降り出し、その褒美にと二人の美女を賜ったが、釈善聖は「それは心外である」と都を去り、この大川村界隈に隠棲してから川崎の三瀧寺に籠もったといわれています。
ところで、その釈善聖を慕ってこの朝谷までやって来た二人の女たちは村人に釈善聖の行方を尋ねるのだが、村人は「知らぬ存ぜぬ」と取り合わなかったそうで、ついに二人の美女は希望を失い渕に身を投げたと言われています。
爾来、旱天続きでもここで雨乞いの祈祷をすれば必ず雨が降り出したそうです。
(当時の村人たちは二人の美女のために力を尽くした訳でもなかったのに、恨みもしないで願いごとを聞いてあげられるというのは素晴らしく心が広い女性だったのでしょう。ただ、人々は様々な現象を自分たちの都合の良いように解釈する風があったので、実際のところがどうであったのかは今となっては分かりません。)