さて、お茶屋場から再び街道に引き返して、「四国のみち」の指標通りに岩佐の関所を目指す。
相変わらず良く整備されて広い街道を行くと、装束峠から約6分で「お産杉跡」にさしかかる。街道を逸れて丸太で土止めされた階段を数歩駆け上がると、いわれのあるお産杉跡に着く。
お産杉のいわれとは以下のようなものである。
天正3年(1575年)長宗我部元親が大軍を率いて阿波国へ攻め入った頃のこと、とある家臣の妻が夫の安否を気づかい妊娠の身をもかえりみず、単身野根山越えをしていた時、急に産気づき苦しんでいると、どこからともなく狼の大群が牙をむいて迫ってきた。ちょうどその時、通りかかった勇敢な飛脚が妊婦をそばの大杉の下枝に救いあげ、迫る狼は刀を抜いて斬り伏せた。その間、樹上でこの凄まじい闘争を見ていた妊婦は恐怖と安堵の交錯した中で、安々と出産していたという。以来、お産杉は「生ぶ杉(うぶすぎ)」とも呼ばれ安産の守り木として珍重されてきたが今は見る影もない。
この伝説は「鍛冶が嬶(かじがかかあ)」の伝説とも呼ばれており、この時傷ついたオオカミの首領を追って佐喜浜まで下った勇敢な飛脚は、そこで鍛冶屋の老婆に化けていたオオカミを倒すという追加談も残っている。
ちなみに、オオカミ(時には山犬)と妊婦との関わりは各地にも多くの言い伝えが残されており、オオカミとは産婆のことであるという興味深い考察もある。



お産杉。いわれの書かれた看板が立つ。

お産杉を経て、更に街道を行くと、約15分で傾きかけた杉の巨木の脇を過ぎて間もなく、「加奈木の崩え(かなきのつえ)」への分岐になる。
「加奈木の崩え、45m」の案内指標通りに、分岐から街道を逸れて約1分で「加奈木の崩え」と呼ばれる大崩壊の上部に出る。
この「加奈木の崩え」は、宝永4年(1707年)秋の地震による崩壊といわれており、その後、延享3年(1746年)にも崩壊が起きていることが「土佐編年記」にも出ているらしい。この崩壊の治山工事は大正6年(1917年)から始まり砂防えん堤73、総工費約2億5千万円をつぎ込んで昭和39年に完成している。かつては江戸時代以来の治山工事の跡が見られたという崩えも、今は樹木が茂りそんな大規模な崩壊の姿を見下ろすことは出来ない。

さて、加奈木の崩えから再び街道に戻り、およそ1.2Km先の「岩佐関所跡」に向かえばいよいよ私たちのこの日の目的のひとつである四里塚は間もなくである。
「加奈木の崩え」の分岐から約15分で蛇谷(じゃだに)への分岐に立つ指標を過ぎ、更に約6分で、目的のひとつ「四里塚」に辿り着く。
四里塚には「野根山街道 四里塚」と刻まれた石碑が建ち、苔むした石で円形に形作られた土塁が残っている。ここが、野根山街道の基点である奈半利町下長田の一里塚から数えて4番目の里程塚で「四里塚」ということになる。
かつてこの道を越えたであろう、遠流の公達や参勤交代の一行、あるいは幕末の脱藩の志士などは、それぞれにどんな思いでこの里程塚を過ぎていったのだろうか。塚の前に立つとそんな時代の人々の声が聞こえてきそうである。
なお、余談だが、里程塚には一般的に榎(エノキ)などの木が植えられ、里程を知るとともに旅人の休憩場所としての機能も果たしていたようで、大きなものでは五軒四方(約90平方メートル)という大型のものもあったといわれる。


野根山街道「四里塚」。石垣で囲まれた土塁が残る。

ひとつの目的であった一里塚の遺構をカメラに納めた後、再び街道を進むこと約10分、有名な「岩佐の関所跡」に辿り着いた。
「四国のみち」整備事業として復元された「門」をくぐると、休憩所やベンチなどが整備されトイレも設置されてる。
ここ、岩佐の関所には、かつて藩主の宿泊用の御殿などもあり、当時は番所長「木下惣兵衛(先祖は豊臣木下秀吉の家臣であったといわれる)」や番人頭「川島総次」などをはじめ、総勢70余人が住んでいたといわれる。
そんな、十数戸の藩人屋敷から成っていた「岩佐村」も明治4年に関所が廃止となり、今はもう誰一人として住んではいない。

そんな番所跡の裏手(北)には木下家代々の墓所があり、ここには悲しい言い伝えのある木下由里が眠っており、いまだにすすり泣く声が聞こえてきそうで、手を合わさないではいられない。
木下由里についての哀話は次のようなものである。
絶世の美女と噂も高かった木下由里(お由里さん)は、佐喜浜の寺田という庄屋に嫁ぎ、1年余りの甘い生活の後、可愛い子供が生まれたのだが、産後の無理がたたったのか病にかかり乳飲み子を残したまま無理矢理実家に帰らされ、愛児を慕いながら文政4年(1821年)に短い一生を終えてしまう。しかし恋しい乳飲み子を思う魂は、幽霊になってまで夜ごと乳を飲ませに佐喜浜まで通ったといわれ、墓石には子を想う母の怨念がこもり、今でも墓石をさすると晴天でも必ず雨が降ると言い伝えられている。


復元された関所の門をくぐると、静かな森の中に岩佐の関所跡がある。

ところで、岩佐の関所を歴史的に有名にしたのは幕末に起きた「二十三烈士(二十三士)」事件だった。
元治元年(1864年)、「清岡道之助」ほか22名の勤王の志士達が、獄中にあった武市瑞山(土佐勤王党盟主)の解放と尊皇攘夷の決行のために武装集結した事件である。その時に屯集した場所がこの岩佐の関所であり、関所の番頭木下嘉久次(きのしたかくじ)は二十三士のひとりだった。
二十三士は結局、藩の大軍が鎮圧に乗り出したため藩外に脱出したものの阿波(徳島県)宍喰で捕らえられ奈半利の河原で斬首される。この時に清岡道之助は32才であった。
現在、道之助の生まれた田野町には「二十三士の墓」(福田寺境内)が、処刑された奈半利川河原には「二十三士殉節の地碑」が立っている。
なお、蛇足だが道之助と嘉久次の妻については興味深い話がある。
関所の番頭嘉久次は屯集の前日、妻の寿世に小遣銭を与え久しぶりに安芸市に里帰りをすすめた。妻は喜んで2才の娘を背負って関所を後にするのを、嘉久次は胸中を明かさずにやさしく見送った。野根山を下る途中、登ってきた義弟の慎之介にも出会うがいつになく丁寧な挨拶を疑いもせず実家に帰るのだった。実家に帰った翌朝、兄英吉の残した和歌により兄や夫、義弟が野根山に屯集したことを察し、はじめてその心遣いを知ったという。
また、道之助の妻の金(きん)は、高知の城下で3日間さらされた道之助の首を、福田寺の本堂で膝に抱え、頭髪に櫛を入れて整え、ヒシャクの柄で首と胴体をつなぎ、少しも取り乱さず作法にのっとり再び葬ったという。この時、金は墓前にて「よしやこの土に屍は埋むとも名をば千歳の松にとどめん」と一首たむけたという。


岩佐の関所跡には野根山街道の案内板や関所跡を示す碑などが立っている。中央、石垣の上が御殿の跡地。

さて、岩佐の番所跡(御殿跡)から南に下ると番士達の屋敷跡があり、石段や石垣が往時の岩佐村の集落を物語っている。
トイレの西側の広い屋敷跡は、ここが番士頭だった川島惣次の屋敷跡であり、立派な石垣に囲まれた敷地を西に抜けて、植林の中の踏み跡を少し下ると「岩佐の清水(いわさ水)」に辿り着く。岩佐の清水までは、関所跡から約5分、標高差20mあまりである。
岩佐の清水は、承久の乱で幡多へ流れた土御門上皇(つちみかどじょうこう)が阿波に遷る折、岩佐の関でこの清水を飲んで喜び「いわさ水」と名付けられたといわれ、夏は冷たく冬は暖かく「土佐三大清水」のひとつとして数えられている。
しかしこの時の岩清水はほんの申し訳程度で、とてもカップに汲めるほどではなかった。


岩佐の清水。この時は涸れてはいなかったがカップに注げるほどの流れではなかった。貴重な水場ではあるが、渇水には要注意。

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