野根山連山 2003年6月29日
今年、私たちは野根山街道のうち米ケ岡(よねがおか)から四郎ケ野峠(しろがねとうげ)までを完歩する計画を立てていた。
この間は「四国のみち」として整備された区間でも車道に侵されることなく、森林浴を満喫しながらハイキングの楽しめるコースとしてつとに有名である。
しかし、延長約25Kmと、相当距離は長い。車の回送をして早朝から黙々と歩けば一日で歩き通すことも可能だが、何かと寄り道の多い私たちには端から無理な相談なので、3回に分けて歩くことにした。
つまり、米ケ岡から装束山、装束山から地蔵峠、地蔵峠から四郎ケ野峠と、街道を3分割してピストンすることで全線を往復したと同じにしようというのである。
そうして今回は四郎ケ野峠から地蔵峠までを歩いたのである。
奈半利町で国道55号線と別れて奈半利川に沿って国道493号線を遡上する。
北川村に入って、羊腸とした3桁国道を延々と走り、東洋町との境に位置する四郎ケ野峠に着いたのはようやく午前9時頃だった。
四郎ケ根峠登山口から歩き始める。
支度を整えると、早速、登山口から歩き始める。
四郎ケ野峠の登山口には様々な案内板が賑やかなほどに設置されている。
歩き始めは丸太で設えられた土止めの階段である。
どんよりと梅雨の中休みの曇り空の下、一間幅の広い街道を緩やかに登り、いつものように身体が慣れてくるまではゆっくりと歩を進める。
植林に照葉樹が混じり始めると、カクレミノなどの樹名板も見える。
登山口から10分ほどでザレ場に設置されたコンクリートの擁壁を過ぎ、左に折り返してザレ場の上に出ると、対岸の尾根筋が目線の高さになる。
ここまで一挙に標高を稼いできて、ようやくなだらかな尾根道になると、ひと休みできるように木製のベンチがあり、そばには「四国のみち」と書かれた木標が立っている。しかし、今日の行程は長い。最初の小休止はまだ少し先にしてここはあっさり通過する。
街道は照葉樹林帯の尾根道になる。
アセビ、ヤブツバキなどの照葉樹林の中、なだらかな尾根道を行くと、麓から薄いガスが上ってきた。
幾つかの山界標石を辿りながらガスの立ちこめる尾根道を進み、登山口から50分ほど歩いてきて、花折峠に立つと小休止することにした。
花折峠は、かつてここから野根に至る旧道があった頃の峠の名残であり、急な坂の途中で参勤交代の殿様が駕籠(かご)に乗ったまま道端の花を手折ったところから名付けられたといわれる。
峠にはベンチやいわれの記された案内板がある。
この花折峠の南には「五代のつえ(五代の崩え)」という大崩壊地があり、峠の少し先には「五代のつえ」のいわれを記した案内板が立っている。
かつての街道は花折峠の南下方をトラバースして野根に向かっていたようだが、宝永4年(1707年)以来、数度にわたる崩壊によりルートは変更を余儀なくされ、やがて花折峠から花折坂(八丁坂)を下るルートも忘れ去られ、現在は四郎ケ野峠へ向かうルートに変わっている。
なお、「五代のつえ」の崩壊のうち天保11年(1840年)の大崩壊は一里四方にも及んだといわれ、麓に栄えた宿場町「八島千軒」が村ごと消滅したと伝えられるから、その凄まじさは想像を絶する。
しかし、そんな大規模な「五代のつえ」も、崩壊してから幾星霜、今では木々が茂り大ザレの面影は薄れてしまっている。
花折峠に立って案内板を眺める。
さて、小休止の後、花折峠を出発すると、しばらく尾根の右手を下ることになる。
延々と下るにつれ、これを帰路には登り返すかと思うと帰途が思いやられる。
10分ほど下ると、前方に尾根が見えてきて、一旦尾根に近づくと、ようやく登り坂が始まる。
街道沿いにはウンゼンツツジが点在している。花折峠で殿様が手折ったという花はこのウンゼンツツジともいわれているが、籠の中の殿様が花に気づくにはもっと芳香の強い花ではなかったかという説もある。
坂道を登り返すと、右にヒノキ植林、左に照葉樹林を見ながらヤセ尾根をなだらかに行く。街道のところどころには「四国のみち」の標柱が立っている。
やがて、「四郎ケ野峠2.7Km、岩佐関所まで6.1Km」の指導標に至ると、再び山肌をZで急下降し一挙に標高を下げる。下りで吹き上げてくる風は心地よいものの、ここでも帰路を思えば素直に喜べない。
時折ガスに煙る街道をゆく。
街道はしばらく植林の中をのびている。
道は少し荒れ気味で、剥き出しの石がゴロゴロとガレ場を形成し、木の枝が降り積もっている。
落ち葉に隠れた土止めの丸太は湿って滑りやすく、足もとに注意しながら先をめざす。
辺りが照葉樹林帯になると街道は尾根道になり、右手にマツの木が見えてくると、「水場(谷)」と書かれた指導標が現れる。
ここまで四郎ケ野峠からおよそ3Kmを歩いてきたことになる。木製のベンチに腰掛け今日2度目の休憩をとることにした。
道標のそばには「清助地蔵」のいわれが記された案内板も立っている。
それによると、この辺りの難所「鐙坂(あぶみざか)」には清助地蔵という霊験あらたかな地蔵が安置されていたが、木仏であったため朽ち果ててしまったということである。清助は野根の百姓で、夢枕に弘法大師が立ってから大師信仰に目覚め、杉の根の芯で仏像を彫ったといわれる。
街道がその役目を終えるとともに、清助地蔵も姿を消してしまったのである。
清助地蔵の案内板が立つ、水場への分岐点。ここを右に下ると水場の谷に至る。
ところで、この辺りはちょっとした峠で、街道には左右から道が上がってきて十字路になっている。
水場は、ここを北西に見える窪地に向かって下れば、明確な踏み跡を辿り2分ほどで水量豊かな谷に至る。この谷は奈半利川の支流矢筈谷の源頭部にあたり、野根山連山の尾根を走る街道にとって、非常に貴重な水場のひとつである。
なお、この時私たちは谷の近くに何かの祭場のような場所を見つけたが、それが何なのかを突きとめるにはいたらなかった。
水場の谷には澄んだ流れがある。